イスラム国と人質の値段と、日本からの反撃の狼煙
2015年1月20日、ISIS(イスラム国)によって拘束された日本人二人の身代金として2億ドルが要求された。
その後、要求に応えない日本政府への見せしめとして湯川遥菜氏が殺害された。
続いて残された後藤健二氏の身柄については、ヨルダンで拘束された爆弾テロの実行犯との交換が要求された。
だが結局、人質の交換は実現しなかった。
そして二人の日本人が、遠い中東の地で命を奪われた。
人質の値段と、ISISが欲しがるもの
拘束された二人の日本人について(特に湯川氏に関しては香ばしい噂が流れたせいで)“自業自得”と思っている人も多かったようだ。
特に最初に提示された身代金が2億ドルと破格であったため、
「あんな自業自得としか思えない危険行為を犯した人物のために、2億ドルもイスラム国にくれてやる必要は無い」
という意見がネット上に飛び交っていた。
だがどんな経緯があったにせよ、人の命であることに代わりはない。
「いらん、殺せ」
と言える権利を持つ人間はこの世に一人もいない(無論ISISにも彼らを殺す権利はない)。
だが結局、2億ドルだろうが2万ドルだろうが、『テロに屈さない』という理由で身代金が支払われることはなかっただろう(※テロに資金援助すれば間接的に彼らの破壊行為に手を貸すことになるし、脅迫に屈せば今後も邦人が誘拐の標的になるからだ)
またISISが要求した身代金の2億ドルとは、日本政府がISIS対策に拠出を表明した援助金と同額であり、つまるところ
「俺らに喧嘩売るのはやめとけ」
という示威行為に過ぎなかったという見方もある。つまり、最初から2億ドルもの身代金が払われるとは思っておらず、最初から殺す気満々だったでは?ということだ。
そして最終的にISISは人質の命を奪い、「アベのせいで二人は死んだ」と声明を出した(もちろん、二人の死は“アベのせい”ではなく、“ISISが殺した”からなのだが)。
彼らは欲しいものを手に入れたのではないだろうか。つまり「俺らに喧嘩売るやつらは痛い目にあう」という印象を再び全世界に伝えた。そして対岸の火事だとタカをくくっていた日本人に、自分たちも被害者になりうるのだという意識を植えつけた。
もしこれが戦争なのだとしたら。
ISISの目的は、西洋諸国によって決められた国境と国家体制(サイクス・ピコ体制)を打倒し、かつてのイスラム王朝の領土を取り戻すことだと言われている。その主張にどれくらい正当性があるのか、僕には分からないが、いずれにせよISISが行っているのは領土を奪い合う武力闘争、すなわち戦争だということになる。
戦争の舞台となっているのは、我々日本人の 土地ではない。そこにどんな歴史があり、どれだけの悲しみや憎しみが降り積もっているのか、異邦人である僕に理解することはできない。
だが(ISISの行為を正当化するわけではないが)、あれほど残虐な行為を行ってまで取り返したい土地なのだ。そこには何か、よそ者にはうかがい知れぬ強い思いがあるのだろう。人を脅し、殺しても奪還したい土地と覇権。(我々にはまったく理解できないが)彼らの中では共感を得る正当性が存在するのだろう。
彼らはその主張を増幅させ、WEBメディアに載せて世界中に拡散する。だから中東地域の外からISISに賛同する人々が集まるのだろう。
だとしたらこれは情報戦だ。 ボスニア紛争の時にも同じ手法が用いられた。
広告代理店による印象操作。“民族浄化”というキャッチコピーでセルビアは敗れた。
「戦争広告代理店」という名著がある。1990年代前半に起きたボスニア紛争に関するドキュメンタリーで、テーマは「パブリックリレーション(PR)による情報操作」だ。
簡単に説明すると、紛争当事者であり劣勢だったボスニア側が、アメリカのPR会社を雇って敵国セルビアの悪口を世論に訴え、国際社会を味方につけたというものだ。
本の中で、ボスニアのPRを請け負ったアメリカのルーダー・フィン社が、セルビア側の虐殺行為を“民族浄化”と名付けて世界に流布させるエピソードが出てくる。
民族浄化という言葉自体は、ボスニア紛争の前から存在した。敵対する民族を排斥するため、虐殺や暴力で土地から追い出したり、自治体を乗っ取ったり、組織的な強姦を行ったりする行為のことだ。
だがルーダー・フィン社はその残虐な行為のネーミングを慎重に行った。当初は“ホロコースト”と呼ぼうとしたが、ユダヤ人コミュニティからの反発を受けて取りやめた。そしてやがて“ethnic puriffying”と“ethnic cleansing”という二つの英訳に辿り着く。最終的に多用するようになったのは“ethnic cleansing”の方だった。なぜなら、そっちの方がより残酷な響きを帯びていたからだ。
“民族浄化”というショッキングな響きが想起させる残虐なイメージは、瞬く間に世界中に浸透した。
たくさんの人が「いったいボスニアで、セルビア人はどんなおぞましいことを行っているのか?」と興味を持ち、セルビアは世界中から批難を浴びた。
もちろん、セルビア側が行ったとされる非人道的行為は決して許されない。
だがよく考えてみて欲しい。敵対する相手を殺し、土地から追い出し、自治体を占拠する。これこそが古来から“戦争”と呼ばれている行為ではないだろうか。近代の軍隊において非人道的な行為が禁止されたため、セルビアが行った行為は非難されているが、100年ほど前は世界中が同じことをしていたはずだ。
このケースでボスニア側が勝利した要因は、秀逸なキャッチコピーでセルビア側の行為を再定義し、印象を操作したことだった。
ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争 (講談社文庫)
- 作者: 高木徹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/06/15
- メディア: 文庫
- 購入: 28人 クリック: 241回
- この商品を含むブログ (157件) を見る
日本から何が発信できるのか考えてみよう。
もしもこれが情報戦だとしたら。
ISISは世界中に向けて、暴力と恐怖と自分たちの正当性を訴え続けている。ネットの普及は“アラブの春”みたいな民主主義の勝利にも貢献したが、テロリストたちのプロパガンダにも役立っている。
だとしたら、日本からもネットを通じて様々な情報発信を行い、彼らの蛮行に対抗することができるのではないだろうか。
だけど、それはISISの行為を茶化す「クソコラグランプリ」みたいなものではないと思っている。相手を攻撃することでは何も得られない。攻撃は報復を生み、憎悪の連鎖を再生産するだけだからだ。
日本から発信するとすれば、ISISが殺したのが誰で、そしてそのことによって何が起きたのか、しっかりと説明することだと思う。
結局、人質が殺害されたからといって、2億ドルの支援が撤回されることは無かった。ISISは何の実現性もない単なる恫喝のために2人の命を奪ったのだ。
彼らの死に、何の意味があったのだろうか?
あの2人に死に値する罪があったのだとしたら、ぜひ教えてほしいものだ。
そもそも、日本人が中東地域の人々から積極的に怨まれるいわれは無いと思う(僕の理解不足なのかも知れないが)。湾岸戦争にお金を出して、間接的に戦火に関わったかも知れないが、むしろお金を出すと言えば、ODAによって中東諸国の発展に貢献してきたのだから。
そんな日本人を人質にし殺害した行為。
その行為が“みっともない”ということを世界中に伝えたい。
そんなPV(プロモーション・ビデオ)を作ればいいのではないかと思う。ISISのプロパガンダに対抗して。
そのPVの映像は、日本がこれまで中東へ支援した数々の橋や電気設備などの紹介から始まる。日本とはすなわち、太平戦争に負けて、軍隊を捨てて、羊のように世界中に頭を下げて金を配っている国だ。石油が涌くわけじゃない、国土が広いわけでもない。足は短く、鼻は低く、国民の半分が眼鏡を必要とする国なのだ。
戦争をしないことを信条にしていて、隣国から領土問題で虚仮にされてもなかなか反論することもできない人々だ。
ISISが殺したのは、そんな国の国民なのだということを、映像で伝えていく。
PVの後半には、地震と津波でボコボコになって、そこから這い上がろうとしている東北の人たちの姿もくっつけて欲しい。ヒロシマ・ナガサキの惨劇も盛り込みたい。“血に飢えた”彼らに、日本がどれほどの苦痛を乗り越えてきたのかを教えてやってくれ。
そんな日本人を殺害し、聖戦だといきまくことがどれほど“みっともない”ことか。
そのことを実感させたい。
世界中の誰が見ても
「うわあ・・・ISIS・・・かっこわるうぅ・・・」
と実感するPVを通じて、これ以上彼らのテロに加担する若者が現れないようにしたい。
「暴走族」を「珍走団」と呼ぶのと同じ力学だ。
美しくない理念に人は共感できないし、理念なき集団は存続することができない。
誰が見ても好ましくない行為を繰り返す彼らの目を覚まさせるには、正面から理を説いても無駄だと思う。
人々からの声高な批難を通じて、水面に映った自分たちの姿を気づかせる努力に、我々はもっと取り組んでもいいのかも知れない。