風とビスコッティ

第3回ゴールデンエレファント賞受賞「クイックドロウ」作者です。ある日ブログのタイトルを思いついたので、始めることにしました。できれば世の役に立つ内容を書き記していきたいと思っています。

ある癌患者と義弟と、その兄について

「正月は冥途の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」
と詠んだのは一休禅師だったろうか。

年の初めから人の死について書くのもどうかと思うが、自分の中で抱えていたものをようやく言葉にできるようになった。
だから文章に起こしてみることにした。

これから記すのは一年と少し前、たった四十歳で亡くなった義姉の話だ。

曇天の下に連なった葬列の様子を、今でも鮮明に思い出す。

それは病の発覚から、わずか八か月後の出来事だった。

 

※※

 

当時、義姉は兄とラスベガスに住んでいた。

年末が近くなり、体調不良を訴えて米国で診察を受けようとする。
だけど、米国の医療制度はどうやら崩壊寸前のようで、高額な医療費をふっかけられたり、そもそも診察の予約が取れなかったり、色々とうまくいかないようだった。

そこで年末の里帰りのタイミングで、日本で診察を受けるという話になった。
同じタイミングで帰省した僕は義姉と顔を合わせた瞬間、どうにも顔色が悪いという印象を抱いた。

土気色なのだ。

同じ年の夏にもラスベガスで会ったが、その時も日焼けしたという印象があった。
だが今回のはそれとは違う。明らかに血色が悪い。そして腹痛が酷く、横になって眠れないと言う。
帰国した当日は布団に横たわらず、コタツの座椅子に座って寝ていた。

ああ、調子が悪いのだなと思ったが、それ以上は深刻に考えなかった。

でもその時、僕の嫁はしきりに言っていたのだ。
横になれないほど痛いって異常じゃない?と。

だけどその時は、むやみに深刻になるのはよくないと答えた。

今となって思えば、それは現実から目を背けていただけなのかも知れない。
家族が重篤な病を抱えているかもしれないという不安に、向き合いたくなかっただけかも知れない。

やがて、年明けに診断は下った。

卵巣癌だった。

 

※※

 

年明け、出勤途中の電車の中で、母からのメールで病名を知った。
重たい刃を頭上に振り落とされたような衝撃があった。

若いうちの癌は進行が早い、くらいの認識はあった。
ネットで進行具合と生存率について調べた。

やがて数日のうちに、手術の日程が決まったと知らせがあった。
義姉はうちの実家に近い高松の病院に入院した。

僕は嫁と二人で、鎌倉の上行寺まで癌封じの御守をもらいに行った。タオルと一緒に御守を送り、手術の成功を祈った。

一月の末、手術を終えた義姉は退院した。
転移が無いか、切り取った病巣についての病理検査の結果を待つ。

二月の半ば、病理検査の結果が出る。
初期の卵巣癌、ただし二種類の腫瘍が混在する稀なケース。
いったん落ち着き、医者と相談の末、このまま経過観察という結論を出す。

日本でしばらく療養した後、三月下旬に兄と義姉はラスベガスへ帰っていった。

義姉たちも、うちの両親も楽観的だった。
初期の癌であり、手術によって患部は取り除いた。
何と無く、このまま大過無く終わる気がしたのだ。

そして四月中旬。
卵巣癌が再発の疑いとのことで、義姉が米国で手術するという報せが入った。


※※


再発を報せてきたのは母だった。

仕事中だったが、嫌な予感がして電話に出た。
義姉の容態が悪く、強い痛みを訴えている。飛行機に乗せて日本に連れて帰れる状態ではないし、一刻を争うので米国で手術をしてくれる病院を探していると。

電話の向こうでは母は言った。
もしそうなったら、手伝いが必要になる、だとしたら、私が行こうと思う、と。

だが母は英語が喋れるわけでもない。
あちらに行っても、むしろ足手まといにならないだろうか。
そんな思いが頭を掠めたが、何と答えていいか分からなかった。

たった三か月で癌が再発したと言われ、混乱していた。
しかも、義姉は遠い米国にいる。

果たして、米国で手術に踏み切っていいのか?
痛みが治まるのを待って、日本に戻った方がいいんじゃないのか?
だが待っていれば痛みが治まるものだろうか?
迷っている間にも、癌が進行して取り返しがつかなくなるんじゃないだろうか?

僕は何も建設的なことが言えず、いったん電話を切った。
色んな可能性がグルグル回って、考えがまとまらない。

一度、日本の病院で手術した義姉を、別の病院、しかも外国で対応することに対する不安。
そして高額な米国の医療費。加入している保険によっては、一回の検査で数十万円。盲腸の手術で数千万請求されるとも聞く。

だが、義姉は激痛のあまり動かせない。

何が正解が分からない。一日、仕事が手につかなかった。

やがて夕方にり、母からメールが届いた。
たった一行のメッセージだった。

“今から、アメリカに行ってきます”

何だかわからないけど、その一言に親の決意みたいなものを感じた。


※※


うちの母親は破天荒だ。
あの世代の女性にしては冒険としか思えないようなことを、平気でやってのける。
対照的に父親はリアリストで、そうした母の振る舞いを見守りつつ、いつも文句を言っている。この時の母親の渡米に対しても、父親は文句を言っていた。
旅行保険も掛けずに飛び出して行ったからだ。

だが振り返って考えると、母は自分の役割をきっちりと果たしたのかも知れない。

この時期の兄夫婦は本当に追い詰められていたと思う。

義姉は不安だったはずだ。
遠い異国の地で、得体の知れない病を抱えていた。
そして、ほんの三か月前に開いたばかりの腹をもう一度開く。
病の恐怖から逃げることも出来ず、立ち向かわなくてはならない。

そして手術が終わった後も待ち受けていた苦しみ。
リンパの腫れと思われる痛みが収まらず、原因を特定するための検査が延々と長引く。
僅かな期間で再発したことで、春先に手術した直後に考えていたような、楽観的な状況でないことがはっきりとした。
癌がどこまで転移し、どれほど進行しているか早期につきとめ、対策を取らなくてはいけない。
できれば日本に戻って治療に専念したいが、下手に動かすことはできない。

単なる苦痛ではない。ベッドの上で飛び上がって悶絶し、転げ落ちるほどの苦痛だと言う。鎮痛剤でうまくコントロールできなければ、飛行機になど乗せられるわけがない。

八方塞りの中、耐え続けるだけの毎日。

英語も喋れない母親が、実際どれほど二人の助けになったか、詳しくは分からない。
だが母は兄夫婦の家で留守番をしながら、毎日弁当を作って届けていた。

それが義姉にとって、僅かでも救いであればよかったと願う。


※※


五月。義姉が日本に帰って来た。
日本にたどり着くまで相当な困難があった。後で顔を合わせた時、義姉はこの時のエピソードを、秘境を旅してきた冒険譚でも話すように聞かせてくれた。

同じころ、僕は実家で待つ父と繰り返し電話で会話した。父は感情が昂ぶっており、電話口で何度も怒りを爆発させていた。とにかく母と兄の悪口を言った。
だがそれが実際は、異国で苦しむ義理の娘に対し、何もしてあげられないことに対する苦悩だと理解できた。父親にとってもまた、義姉は二十年も自分の娘だった存在だ。これが病とは別の問題だったなら、父親は真っ先に駆けつけて解決に導いただろう。

やり場のない憤りのせいで家族みんなが傷ついていたし、落ち込んでいた。
義姉に取りついた死神が、その周りの家族に瘴気を浴びせているのがよく分かった。

だから実家に連絡するのは気持ちが重かったが、できる限り電話をした。
僕は死神から一番遠くにいて、瘴気に毒されていないと思っていたからだ。
みんなが地獄の淵に引きずり込まれないよう、遠くから声を掛け続ける必要があるんじゃないかと思っていた。


※※


八月。お盆休みで帰省した。

帰省してまず病院に向かったが、そもそも面会できるかどうかも怪しかった。
義姉は抗がん剤の影響で髪が抜け、やせ衰え、友達との面会さえ断っているということだった。

元気だった頃の義姉は、お日様のように明るい人だった。
地元を離れて二十年も経つのにいまだに関西弁で、ちょっと天然で、身の回りで起きた小さな出来事を、独特の語り口で笑い話に変えて聞かせてくれる。

彼女がラスベガスで働いていた居酒屋の“オヤカタ”と“アニキ”のエピソードだけで、一晩中笑い転げたものだ。

他人のことを、とにかく気遣う人でもあった。
看護師の迷惑を考えて、ナースコールを押さないのだと母がぼやいていた。モルヒネを使って痛みと戦っているような本人が、だ。

人間には必ず陰と陽の面があると思う。だけど彼女は陰の部分を母親のお腹に忘れてきたんじゃないかと思うような人だった。

そんな彼女だからこそ、やつれ果てた自分の姿をみんなに見せたくないと思っているようだった。
それに、薬が効いている状態では朦朧としてまともに話ができない。

その頃、日常的に義姉と接しているのは兄と母だけになった。
父も義姉に遠慮して、病室に出入りしないようにしているようだった。

会えるかどうか分からないまま病院に向かっていると、兄からメールが入った。今なら少しだけ顔を合わせられるだろう、と。
病室の場所を教えられた僕は、父と嫁と一緒に向かうことにする。

一つだけ決めていたことがあった。
絶対に悲壮な顔はしないでおこうと。

事態が深刻であることは当人が一番分かっていることであり、そんな負の感情を煽り立てることはせず、できる限り“なんでもない”ように振舞った方がいいのではないか。

そう考えながら病室に入った瞬間、笑顔が凍りついた。

ベッドに横たわっていたのは、人相が変わり果てた義姉だった。特殊メイクにしか見えないほどガリガリに痩せているせいで、目が落ち窪み、顔の輪郭が変わっている。
薬が効いているのか、目に力が無い。
消え入りそうな声で、何か話しかけてきた。

何を話したのかは全く覚えていない。父が何事か言いながら、義姉のガリガリの腕を撫でたのだけは覚えている。それ以外は、自分が泣き崩れないよう、感情のメモリを必死に調整していた記憶しかない。

部屋の片隅に、死神がいた。
そいつはこっちをじっと睨んでいて、僕たちが取り乱した瞬間、義姉の生命を奪っていくような気がした。

だから僕たちは精一杯の虚勢を張って“なんでもない”ように振舞った。
だがそれも数分が限界だった。

僕たちは逃げるように病室を出た。
自分の前を歩く父親が、振り返りもせずに部屋を出たのを覚えている。

死が充満した部屋で、平静を装うのにはとてつもない精神力が必要だ。僕もまた、父の後を追って部屋を出ようとした。

その時。

「またね」

背後から義姉がそう呼びかけてきた。

再会を約束する言葉だった。

僕は義姉の方を振り返った。

 「またね」

ベッドに臥した義姉が、再び口にした。
その声は驚くほど力強かった。
それは再会を誓うことで、己の生命を鼓舞しようとする義姉の祈りにも思えた。

僕もまた、義姉と同じ言葉を口にした後で、力を振り絞って笑みを浮かべ、手を振った。

それが限界だった。

病室を出ると、全員が無言で泣きながら出口を目指していた。


※※


生きている義姉と最後に会ったのはその数日後だ。
義姉は再会の約束を果たしてくれた。

短い夏休みが終わり、東京に戻る前に病室に立ち寄った。

義姉は前回よりも調子が良かったし、僕たちにも心構えができたので少し落ち着いて話すことができた。

アメリカでの手術と、その帰国にまつわる冒険譚を聞いたのはこの時だ。
僕たちは窓辺に腰掛け、義姉の話に笑いながら聞き入った。

義姉の病室の窓辺からは夏祭りの花火が見えるという。
特等席だね、とそんな話をした。

この時も、他愛も無い話に終始した。
もしあの時、これが最後の時間だと分かっていたら、僕はもっと他の話をしただろうか?

彼女には色んな感謝の思いがあった。
二十年も僕の姉でいてくれた人だ。

僕のことを実の弟のように思い、面倒を見てくれた。
僕と兄との間に割って入って「兄やねんから」と諭してくれた。
僕が家族に相談しづらいような話を聞いてもらったこともある。
そして何より、偏屈でマイペースな僕の兄を、世界中の誰よりも優しく支えてくれた人だった。

だけどその時も、部屋の片隅には死神がいたのだ。
僕たちが義姉の死を受け入れた瞬間、彼女の生命を奪っていこうと手ぐすねを引いていた。
だから結局、義姉に対する感謝の言葉やお別れを、本人に伝えることはできなかった。
彼女の最期を認めたことになるから。

僕は帰り際、今度は自分から声をかけた。

「またね」と。

だがその誓いが守られることは無かった。

 

※※

 

義姉の訃報に接したのは、最後に会ってから一月もたたない九月のことだった。

前日の夜に父親から電話があり、医者が覚悟するように言ったと伝えてきた。

余命宣告は五月だったろうか?
そして覚悟するようにとの医者の言葉。

だが僕は半ば信じていなかった。
正常性バイアスというやつだろうか? 電話をしてきた父に対し、余命宣告の何倍も生きた人の話を引き合いに出した記憶がある。何倍も生きた人の裏で、無数の人たちが余命宣告通り亡くなっている事実を受け入れていなかったからだ。

早朝、母親が電話をかけてきた。努めて淡々と事実を告げた母親に対し、僕は静かに返答し、電話を切って荷造りをはじめた。


義姉の死に際して、一つだけ考え続けていることがある。
それは闘病中、義姉に付き添いつづけた母の言葉を受けて抱いていた疑問だ。

「治療を止めて、緩和ケアに切り替えた方がいいんじゃないの?」

苦痛を取り除く緩和ケアは、癌治療と平行して行われることもあるそうだが、義姉のケースに関して言えば、苦痛の根源である抗癌剤治療そのものを止めることを、母は考えていた。
兄と二人でそのための施設も見学に行っていたようだ。

だが最終的に、義姉は最後まで治療を諦めなかった。

そこには兄の意思も大きく働いていたように思う。
義姉が病に倒れてから、兄は仕事を辞めて看護のために付き添った。自らもあらゆる治療法を調べ、国立がん研究センターに足を運び、未認可の新薬について検討していた。

最後に会った時も、義姉と兄は次の抗癌剤投与に向けて作戦を練っていた。
二人で癌と戦っていたのだ。

その判断は正しかったのだろうか?
どうせ助からないのなら、苦痛を取り除く緩和ケアを行った方が幸せだったのではないだろうか?

その答えは一生見つからない気がする。

だが僕は、義姉が抗癌剤治療について話をしてくれた時に
「しばらく前に、すごく薬が効いて、もうこのまま治るんやないかと思ったんやけどな」
と、悔しそうに語ったのを覚えている。

それを聞いた時、衝撃を受けた。
こんなにガリガリに痩せ衰え、部屋の片隅で死神が鎌を研いでいるのに、この人は“諦めていない”のだと理解した。

そういう意味では、とっくに諦めていたのは僕たちの方だった。

こんなに衰弱した彼女が、凄まじい勢いで襲い掛かる死と立ち向かっているのだと気づいた時、僕は“生きる”ということの意味を理解した気がした。

人間は誰しも、生れ落ちた瞬間から死に向かって進み続ける。
日々の営みは全て、歩み寄ってくる死を少しでも遠ざけるための努力に他ならない。
息をして、糧を得て、病を避け、子を成そうとする。

死に対して抗うことを止めた瞬間、人は生きていないことになる。

だとしたら。

どんなに苦痛に満ちていたとしても、治療を止めた瞬間、義姉は生きる希望を失うことになる。今縋っている“治るかもしれない”という微かな希望を断ち切られてしまうことになる。

それはどんなに恐ろしいことだろう。

母は僕に対して、何度も緩和ケアのことを口にした。
もう見ていられない、とも言った。
楽にしてあげたい、と。
でも、もしかしたら、それは見守る側の人間が抱いた幻想だったかも知れない。

本当のところはきっと誰にも分からない。義姉にだって分からないだろう。苦しい時は殺して欲しいと思ったことがあるかも知れない。抗癌剤は辛い、もう止めたいと母にこぼしたこともあると言う。

だが彼女は生きることを諦めず、闘い抜いて、だから絶望することが無いまま亡くなった。

そう信じたい。
それは僕の勝手な思いだけど。

日曜の朝、東京を発った。
義姉に別れを告げるために。

 

※※

 

兄のことを、書いておこうと思う。
病の発覚から、文字通り二十四時間三百六十五日、義姉に付き添った兄について。

当時、兄はニューヨークで新規事業の立上げに参画する予定で引越の準備をしていた。アメリカでスタートアップを成功させることを目指してきた兄にとって、乾坤一擲の機会だったことは確かだ。

だが義姉の看病に専念するため、兄はその事業から離れることになった。
それからというもの、義姉の病室に寝袋を持ち込んで泊り込み、最後の瞬間まで共にすることになる。

それが正しいやり方だったのかどうかは、分からない。

義姉の看病という意味でも、兄のキャリアという意味においても。

ただ、とある病院関係者が言っていた言葉を思い出す。
「死を間近にした重病患者の病室には、自然と家族が寄り付かなくなる。死の気配は人を憂鬱にし、精神的なエネルギーを磨耗させるから」

だがウチの兄は出て行こうとしなかった。
むしろ寝袋を持って立て篭ったのだ。死神だって困惑したことだろう。
この絶望に包まれた闘病劇の中で、こちらを無慈悲に蹂躙する運命側に対し、人間側はただ一発だけ反撃を試みた。

それが兄の存在だった。

主治医が余命宣告し、国立がん研究センターにも諦めろと諭されたけど、兄だけは諦めなかった。治療をしてくれる医者を探して日本のあちこちを訪ね、がん治療新薬の製薬会社も引っ張り出した。
ずっと文句を言っていた父が、その兄の後押しをした。自分の人脈を総動員して、息子の挑戦を支えた。

その努力が役に立ったかどうかは分からない。

最終的には癌に敗北するのだから、見る人から見ればその行為はピエロにしか見えないだろう。
それにふと思うことがある。兄が闘病に固執したから、義姉は治療を止めることができなかったのかも知れないと。

そういう意味で、兄の判断が正しかったかどうは、分からない。


だが僕は、こんな人を他に知らない。

嫁のために仕事を投げ出して病室に泊り込み、朝から晩まで癌について調べて一緒に戦う人を。
兄は最後まで、義姉にとっての救いであろうとした。

ずいぶん前に、結婚披露宴の挨拶で兄が何気なく口にした言葉が印象に残っている。
「僕たち二人はこれから……まぁ一生一緒にいるわけなんですけども……」
それは本当に何気なく、当たり前の言葉として口にされたから、逆に強い印象を与えた。
兄は義姉と一生添い遂げることを露ほども疑わず、そして最期の瞬間までその言葉に忠実だった。


義姉が亡くなった日。
最初の飛行機で実家にたどり着いた僕は、がらんとした家の中で兄の姿を探した。両親はまだ葬儀場にいて、兄だけが荷物を取りに戻ったと聞いたからだ。

顔を合わせた瞬間、兄が僕に抱きついて泣き崩れた。
生まれてこの方、兄が泣く場面などほとんど見たことが無い。

ましてや、自分の肩を貸す日が来るとは思いもしなかった。

兄は敗北した。癌は無慈悲に義姉の生命を奪っていった。
この物語に一発逆転の勝利は無い。善良なる市民が抗い、努力し、もがき苦しんだ挙句、奈落へと蹴落とされるだけの話だ。

だが一つだけ言えることがあるとすれば、兄は自分の全てを擲って義姉に尽くしたということだ。
その振る舞いについて省みた時、後悔することは多くは無いだろう。

義姉はそんな兄をどう思っただろうか?
少しは、うっとおしいと思ったかも知れない。
でも自分のために全てを捧げてくれた夫を、誇らしく感じてくれたのだと思いたいし、そう信じたい。

そして少なくとも僕は、自分の兄を誇りに思っている。

こんな人を他に、僕は知らないからだ。

 

※※

 

最後に。

曇天の下、義姉の葬列を前に考えていたことを思い出す。

義姉の死は、僕たちに何かをもたらすのだろうかと。

人生に起きる出来事は全て意味があるのだと考えたかった。この悲劇もまた、僕たちを導くための天の采配なのではないだろうかと。

だがあれから一年以上が経過したが、今の時点では、単に不幸の爪痕が残されただけだ。

義姉の闘病を境に、家族それぞれが傷つき、仲違いし、積み上げてきた幸福が吹き飛ばされたのを感じた。
これまで我が家は強い結束で結ばれていた。
どんなにしんどいことがあっても、家族が集まれば笑いあって幸せに過ごせる。それぞれが未来に向けてチャレンジをしていて、今よりも幸せな未来が待っている。なぜかそう信じて疑わなかったのに、その不文律が崩れた気がしていた。

僕は生まれて初めて、心の底から笑えない一年を過ごした。

あの一件を境に、家族それぞれが変わってしまったことは否めない。

最初に心配したのは、兄のことだった。二十年も彼を支え続けてきた義姉を失い、がっくりと落ち込んでいた。
続いて変化を感じたのは、父のことだ。偏屈なのは前からだが、明らかに怒りっぽくなっていた。
母は一番悲劇に耐えたように思えたが、ずっと義姉に付き添っていたのだから、心労が蓄積していないはずはなかった。
僕に関して言えば、自分の未来に対して暗い影を感じるようになった。
はっきり言えば、死を意識するようになったと言う事だ。自分の人生が後どれほど残されているかについて、考えることが増えた。

この傷はいつか癒えるのだろうか?

和らぐことはあるかも知れない。だが元通りには決してならないだろう。義姉は去ってしまったし、もう一度家族がそろうことは叶わない。

死神は姿を消したが、僕たち家族に暗い影を落としたままだ。
何度も言うように、この物語に救済の面は無い。運命は残酷で、義姉を奪っていっただけで何も残さなかった。

だから僕は、自分で何とかするしかないと考えるようになった。

運命はこちらの都合など考えてはくれない。奪う時はただ奪い、等価交換などしない。だったら自分で何かを見つけ出すしかないだろう。
僕は義姉の記憶を胸に刻み込むことにした。
これから生きていく上で、僕たちの前には様々な困難が立ちふさがるだろう。もしそんな時、自分がくじけそうになったら、義姉の言葉を思い出そうと考えている。

彼女は「またね」と再会を誓った。
まだ諦めていなかったからだ。
義姉は生きていたかった。だから最後まで死に立ち向かった。

たった四十歳で命を奪われた彼女と比べれば、僕らの抱える困難なんか、どれほどのものか。
義姉のことを思えば、どんなに惨めで辛い思いをしても乗り越えられるはずだ。

だって僕らは生きている。
彼女があれほどまで望んだ生を得ているのだから。

うまくいかないことが立て続いて、本当に落ち込んでいた時に義姉のことを思い出した。
五体満足な自分が落ち込んでいることが申し訳なく思えて、再び立ち上がることができた。

もしそれが新たに得た強さだとしたら、それは本当にささやかな代物で、義姉の命と引換えだと考えるとまったく割に合わない贈り物のように思えた。
できれば神様に投げ返し、義姉を戻して欲しいくらいだ。

だがそれが叶わない以上、僕は贈り物を握り締めて生きていくしかない。

今は掌をほんの少し暖めるだけの、ささやかな力だ。
だがいつか、これを手に持てないほど熱い力に変えるのは、自分自身の務めだと思っている。

義姉が見ているのだから、みっともない生き方はできない。いつか彼岸で再会した時に、あのお日様のような笑顔に褒めてもらえるように。

 自分なりに、精一杯生きて行こうと思う。