風とビスコッティ

第3回ゴールデンエレファント賞受賞「クイックドロウ」作者です。ある日ブログのタイトルを思いついたので、始めることにしました。できれば世の役に立つ内容を書き記していきたいと思っています。

出雲が消滅した理由と、最新刊「災神」の告知と。

しつこいようですが、わたくしめの最新刊「災神」が6月1日に発売となりました。
謎の災厄に襲われ、一瞬で壊滅した出雲の中で、外部との連絡が阻まれた生存者たちが生き延びようとするパニックサスペンスです。

まだ発売から間もないですが、読み終えた方々から「面白くて一気読みした」「途中から(読み終えるまで)あっと言うまでした!」などのコメントいただき……というか、ネット上をエゴサーチして確認しており、楽しんでいただけて幸いと思っている作者です。

そんなエゴサーチの最中「地方都市の出雲が舞台って珍しい」とか「いったい出雲に何の恨みが??」みたいなコメントを見て、なるほどと思った次第。

言われてみれば確かに、パニック物って普通は大都市を舞台にしますよね(よく言われることだけど、ゴジラガメラは都会にしか上陸しない)。

ではなぜ「災神」の舞台は出雲なのか?


実は僕自身は、出雲に格別な縁はありません。というより、この作品を書くまでは足を運んだこともありませんでした。

でも本作は海からやってきた災厄に人類が立ち向かう、現代の神話として描かれた物語。だから舞台は神話ゆかりの地である出雲にしようと決めたのでした。

 

物語を書き進めるうちに、実際にこの目で現場を確かめたくて、出雲へ取材に赴きました。

 

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最初に訪れたのは、作中でも何度か登場する稲佐の浜です。かつて国譲り神話の舞台のなったこの場所の中央には、豊玉毘古命を祀った「弁天島」が鎮座しています。

これ以外にも、出雲の各地には神話ゆかりの名跡が様々あり、素晴らしいインスピレーションを与えてくれたのでした。

 

 

稲佐の浜を、高台にある奉納山公園から見下ろした風景。

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奉納山公園からは、市街地が一望できます。何が起きたのか、全てを見ることができるわけです。

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最後の決戦の舞台となるのが、この島根県立中央病院です。

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そして出雲そば(作中では戦闘糧食とビスコしか食べる機会がないですけどね)。

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初めて訪れた出雲は素晴らしい場所でした。

近いうちに、また足を運びたいと思っています。

そして「災神」がなぜ神話の形を取る必要があったのか、その話はまた今度!

【告知】2017年6月1日「災神」発売となります。

災いの神、とかいて「さいしん」と読みます。

ワタクシめの第2作目となる長編小説です。

前作「クイックドロウ」はアメリカを舞台にサムライが無双する物語でしたが、今作の舞台は謎の災厄によって壊滅した出雲です。

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いったい何が出雲を襲ったのか?というミステリから始まるこの作品。災厄のスケールを伝えつつも、その正体を冒頭から明かすわけにはいかない制約の中、挿画を手掛けたイラストレーターの田中達之さんが素晴らしいイラストを仕上げてくださいました。

 

表紙に描かれた子供とスマホ、その向こうに見える瓦礫。そして帯の下にも仕掛けがあって、本編を読み進めた後に見返すとニヤリとすることでしょう。

前作「クイックドロウ」のカバーデザインもかなりお気に入りだったのですが、今作も素晴らしいプロの仕事に大満足です。

 

あ、もちろん本編も面白いですよ。

僕の個人的な思いも含まれてはいますが、読者の皆様にはまず正統派のエンターテインメント小説として手にとっていただければと思います!

 

 

shoten.kadokawa.co.jp

キーウエストと、ヘミングウェイ・キャットのたるんだウエストと

老人と海」や「誰がために鐘は鳴る」で有名なアーネスト・ヘミングウェイ。かの文豪が愛したフロリダの島キーウエスト。聞けば、そこには六本指の猫たちがいるという。指が多い猫は船のロープをしっかり掴むことができるため、船乗りたちの間で幸運のシンボルとされたとか。

そんなラッキー・キャットたちに会うため、はるばる海を越えてキーウエストを訪れた。これは猫好きも、そうでない方も必読のエントリーなのである。

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ヘミングウェイさん家の猫

 

海上の高速道路、オーバーシーズハイウェイを抜けて“骨の島”へ。

アメリカ東海岸からメキシコ湾に向け大きく突き出すフロリダ州。その最南端にある群島が“フロリダ・キーズ”だ。東西に百マイル以上にも渡って伸びる小さな島々で、その中心を国道1号線(US-1)が貫いている。この道路は別名“オーバーシーズハイウェイ”。異常に海抜が低く、左右に海が迫る道路が延々と続くため、まさしく海上を走っているような気分にさせられるハイウェイ。

今回はレンタカーを使い、マイアミから陸路でキーウエストを目指した。真っ赤なマスタングで走ること6時間。オープンカーで風を切って走るのはとても気持ち良い。だがフロリダの紫外線はソーラ・レイのように強烈だ。

写真を撮り終わってすぐ、幌を畳んだ。

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 ちなみにキーウエストは「KeyWest」と表記するのだが、これはもともとスペイン語で「CayoHueso」と呼ばれていたのが、その音だけが残って「KeyWest」に変化したのだそう。Cayoは島Huesoは骨の意味で、すなわちキーウエストとは「骨の島」という意味だとか。

表向きは、だ。

だが真実は歴史の中に隠されている。海を挟んで南に目をやれば、数十マイル先にあるのはキューバだ。かつて冷戦時代にキューバ危機が起きた際、時の政権は極秘裏にとある兵器をこの島に埋設した。西側の勝利の鍵を握るという意味を込め、キーウエストと名付けられたのだ。

そんな妄想を垂れ流しながら、僕はセブンマイルブリッジを渡った。

 

デュバル通りで食すロブスターサンド。

キーウエストは全長十キロにも満たない小さな島だ。さらに観光地のほとんどは、西側四分の一程度を占めるオールドタウンと呼ばれる地区に密集している。その中心をデュバル通りというメインストリートが南北に貫いており、食事も買い物もその周辺で事足りてしまう。

街の雰囲気は実にのんびりとしている。高齢者を中心とした観光客が多く、大らかな雰囲気で治安もよい。

何と言うか、日本で言えば温泉地みたいな感じだ。

最先端のショップで買い物したり、歴史的価値の高い美術品を見たりはできないが、ぶらぶらと町を歩き、疲れたらその辺のレストランのテラス席で涼むのは楽しい。

絶品だったのはDJ's Clam Shackのロブスターロールだ。 たっぷりのロブスターをデニッシュ地のパンで挟んだサンドイッチは絶品だった。店内は半屋外で、扇風機が一台置いてあるきりのワイルドなロケーションだったけど。

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 DJ's Clam Shack /  629 Duval St, Key West, FL 33040

 

 ヘミングウェイ家のラッキーキャット。

今やgoogleで「ヘミングウェイ」と検索するとサジェストの最上位に「猫」と来る時代だ。もしかして現代日本でヘミングウェイはただの猫好きなおじさんだと思われているのかも知れない。ひょっとしたら「吾輩は猫である」もヘミングウェイの作だと思われているかも。

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だが実際のヘミングウェイは、自ら戦地に赴いた経験をもとに小説を書く肉体派・行動派の作家で、世界中を転々としながら暮らした。ここキーウエストにある「ヘミングウェイの家」もその中の一つに過ぎない。 

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 後に興るハードボイルド作家の原点でもあるという、アーネスト・ヘミングウェイ。その文豪の内面に迫るため、僕はヘミングウェイの家へと足を踏み入れた。入場料は13ドル。太宰治の生家の見学料が500円で、宮沢賢治記念館が350円だったことを考えると、いささか高額な気もする。だが何せ相手は世界のヘミングウェイだ。ノーベル文学賞受賞作家だ。

それに以前、スコットランドで驚くほど空虚なネッシーの博物館を訪れ、6ポンド取られたことを考えればまだ安いような気もする。

 ネッシーの実在問題とネッシーランド ~イギリス・スコットランド旅行~ - 風とビスコッティ

 

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足を踏み入れると、キーライムカラーの素敵な邸宅と、広々とした庭。そしてさっそく猫たちが出迎えてくれる。

庭先に、邸宅内に、あちこちに猫が放し飼いになっている。人に慣れている奴もいれば、不愛想な奴もいる。適当に写真を撮りながら、邸宅の中へ。

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中にはヘミングウェイゆかりの展示がずらりと並んでいる。そこそこ朝早い時間にも関わらず盛況で、年配の団体客が次々に訪れてガイドツアーに興じている。

 

ぞろぞろと現れる観光客に微動だにしない、猫たち。展示品のソファーやベッドの上で、堂々と寝転んでいる。

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 さて、肝心の六本指の猫だが、そう簡単には見つからなかった。

というか、手の大きなそれらしい猫を見かけはするのだが、むんずと掴んで指の数を数えるわけにもいかないから、今イチ確信が持てない、ということだ。

ヘミングウェイの家にはたくさんの猫が飼われているが、全ての猫が触らせてくれるわけではないのだ。

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仕方ないから、油断し切って身を任せてくるデブ猫の、たるんだウエストを撫でて満足する。

 

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……まぁ、かわいいから良しとするか。

 

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邸宅の裏側には、猫の飼育小屋がある。ここでは常時五十匹ほどの猫が飼われているそうだ。

 

 

木漏れ日の庭でパンケーキと猫とニワトリと。

このエントリーを読んで、もしもキーウエストに行ってみたいと思った酔狂な猫好きがいたとしたら、もう一つお勧めのスポットがある。ヘミングウェイの家からほど近い場所にあるBlue Heavenというガーデンレストランだ。

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Blue Heaven / 729 Thomas St, Key West, FL 33040

 

ここでは木漏れ日の差す中庭で、美味しいブランチを食べることができる。お勧めはパンケーキとエッグベネディクト

 

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そして庭のあちこちに、猫と鶏がいる。

※というか、キーウエスト(ちなみにマイアミも)にはそこら辺にごろごろと野良鶏がたむろしている。

 

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 最後に、ヘミングウェイの家の隣にある灯台博物館も紹介しておこう。

 

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歴史的価値のある灯台を移築し、その由来について説明した博物館。敷地内にある灯台には実際に昇ることができて、非常に高い場所からキーウエストの街並みを一望できる。

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絶景だ。

だが同時に、絶叫の源でもある。高い所が苦手な人は決して昇ってはいけない。らせん階段はすっかすかなので、降りようとする時の恐ろしさが半端じゃない。僕は足がすくんで降りるのに難儀した。幸い、他に見学者がいなかったから良かったが、後続の誰かに早く降りるようにと急かされたなら、その相手を忍法もず落としで真っ逆さまに叩きつけかねないほどの恐怖だった。

ほうほうの体で灯台博物館を逃げ出した僕は、入口のところで入場しようとする若いカップルとすれ違った。女性の方が「どうだった?」と目をキラキラ輝かせて聞いてきたので、僕は思わず「素敵な景色だったよ」と答えた。女性は「オーマイガ!凄くクールね!」と興奮を隠せない様子で、彼氏を引きずるように中へ入って行った。

僕は嘘は言ってない。景色は確かに素敵だった。

だけど灯台を昇り切った彼らは、違う意味でオーマイガするのだろう。

すまんね、若者たち。

 

どっとわらい。

台湾の目が覚める豆漿屋と入りにくい居酒屋と

10年くらい前か。「鬍鬚張魯肉飯」という台湾のお店が渋谷に出店していて、そこで生まれて初めて魯肉飯(ルーローハン)を食べた。八角の効いた豚肉の細切れをこってりと煮込み、白飯にざっぱとかけたファストフードだ。美味すぎて、腰を抜かしかけたのを覚えている。

 

残念ながら「鬍鬚張魯肉飯」は日本から撤退してしまったので、僕はしばらく魯肉飯を食べる機会に恵まれなかった。再開したのは四年ほど前に、台湾に行った時だ。

そしてその時に思い知ったのだ。

魯肉飯はほんの一片だったのだと。クルクルと回る万華鏡のような台湾グルメを、垣間見てきた。

 

目が覚めるような黄色い机で目が覚めるような朝食を

台湾に行ったら朝食は豆乳と揚げパンを食べるべし、とあらゆるガイドブックや観光サイト、個人ブログからSNSにまで書き尽くされている。ここまで明瞭な行動指針に従わないのは、サムライが武家諸法度を無視したりハリーポッターダンブルドア校長の助言を聞かないのと同じことだろう。

そこで台湾(台北)に着いた最初の朝は素直に豆乳を食べに行った。正確には豆漿(ドウジャン)だ。

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世界豆漿大王

104 台湾 Taipei City, Zhongshan District, 林森北路310巷27號

 

 台北のあちこちで豆漿屋を目にする。どの店も朝早く開いて、多くの人でにぎわっている。ずらっと行列になってる場合もあるが、持ち帰りの客も多いからそこまで待たされることはないだろう。 

 基本的には豆漿(豆乳)と、パンの類の組み合わせで注文することになる。

「世界豆漿大王」では温かい豆乳に砂糖をぶち込んだ普通の豆漿と、豆乳に酢をまぜておぼろ豆腐状にし、トッピングを混ぜた「鹹豆漿」。そしてパン生地に炒り卵を挟んだ「蚕餅」を食べた 。中でも鹹豆漿は絶品だった。

そして、テーブルは目も覚めるようなケバケバしい黄色だった。

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※<豆漿屋では高確率で猫に遭遇する気がする。

台北で、それなりに観光客が訪れるような立地の豆漿屋には、日本語メニューを置いてあることが多い。だけど例え和訳されたとしても、味が想像できないメニューというのは存在する。例えばこのビニール袋に入った「焼餅油條」だ。

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「焼餅」は小麦粉を練って焼いたいわゆるパンであり、卵や肉類を挟んで食べる。そして「油條」は棒状に油で揚げた揚げパンだ。

パンで揚げパンをサンドイッチしているわけである。炭水化物+炭水化物どころの騒ぎではない。全てが小麦粉からできているという意味では、まるでマクドナルドのグラコロバーガーのようだ。

実際に食べてみたのだが、「揚げパンをパンで挟んだ物を食べた」という以上の感想は無かった。 ぱさぱさして喉が渇き、やたらとお腹が膨れた。たぶん、そのまま食べる以外に食べ方があったのだろう。

今度行った時は店の人に食べ方を聞いてみよう。台北の人々は大概、親切だった。例え日本語が話せなくとも、何とか意思疎通を試みてくれる。

 

そもそもなぜ豆乳なのか

台湾の豆漿屋があまりに素晴らしかったので、帰って来てから豆乳について少し調べてみた。豆乳と言えば、豆腐を作る前工程でできる液体である。それがなぜ台湾であそこまで普及しているのか不思議に思ったのだ。

だが僕は勘違いをしていたようだ。最近流行りのクールJAPANに感化され、日本文化が世界の中心だと思い込んでいた。つまり世界で愛されている豆腐(TOFU)は日本料理なのだから、豆乳も日本発祥なのかと漠然と考えていたのだ。

 そんなわけないですよね。

 豆腐の発祥について、詳細は諸説あるとされながらも、基本的には中国が起源らしい。中国の古い書物本草綱目」によれば漢の時代の劉安と言う人物が考案したことになっているが、歴史考察的にはちょっと怪しくてもう少し後期では?みたいなことが言われているとのこと。

詳しくは、以下のリンクから。

 豆腐の歴史|豆腐のことなら全豆連

日本豆腐協会│豆腐の歴史

 豆腐について調べていて気になったのが、上記にリンクしている「全豆連」と「日本豆腐協会」の関係性。どちらも豆腐に関する業界団体だが、前者は「国から認可された唯一の豆腐の業界団体」と名乗り、後者は「日本を代表する豆腐製造業者から成り立っている組織」と名乗っている。何と言うか、豆腐界におけるオーソリティを競っているようにも見える。「王将」対「大阪王将」と言おうか、分裂した極真会館と言おうか。

ここはひとつ、世界にTOFUを発信していくためにも、豆腐界全体で仲良く結束して欲しいものである。すき焼き鍋でぐつぐつと煮ても崩れない、しっかりとした木綿豆腐のように。

  

台北最後の夜に、入りにくい居酒屋へ

話は台湾滞在記に戻る。

台湾には全部で五日間ほど滞在した。お馴染の九フンに行き、夕日の綺麗な淡水を見て、猫に占拠された猫村を訪問した。 

滞在期間中の満足度を聞かれたら「この上なく楽しい」と「もうサイコー」の間くらいだったと答えたい。飯は安くて美味く、人は親切だ、様々な見どころがあった。

最後の夜はホテルの裏にある居酒屋に行った。路地裏にポツンとある小さな店で、ガイドブックに載ってるわけでもない。店の看板もあるんだかないんだか分からない。NHKの人気番組「世界入りにくい居酒屋」に出てきそうなハードルの高い店だった。

だけど店頭には、いかにも美味そうな魚介類が並んでいる。 

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訪れたのが早い時間帯だったので、そもそも店が開いてるかどうかも怪しかった。店頭にいた日本語を解さない店主と身振り手振りで会話し、店内へ通される。

 

店内はテーブルが六席くらいのシンプルな食堂。壁際に大きな冷ケースがあり、そこからビールや飲み物を勝手に取り出すスタイル。

そしてメニューが無い。

再び店頭に出て店主に話しかけると、ニカッと笑って「何食う?」みたいな顔をする。店頭に並べられた魚介類を指さしながら、食べたい魚と、調理法を指定する。

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注文したのは大きなうちわエビと、牡蠣オムレツ、蒸し魚等々。いずれも美味かった。お互い言葉が通じないのに、どうやって細かく調理法が指定できたのか、今となっては謎だ。

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 店はほどなくして混み合って来た。仕事帰りのサラリーマンが入店してきて、次々とビールを開けていく。かと思えば少し年配のおば様たちが団体で入店し、乾杯を始めた。メニューは見当たらないが、炒飯を注文している人もいる。旅で通りかかった観光客にはわからない作法があるのだろう。

地元の人たちに混じって台湾ビールを飲みながら、僕は満足だった。これがNYサウスブロンクスの裏路地だったら、恐ろしくて足を踏み入れることはできなかっただろう。

治安がよく、人懐っこい台湾だからこそ堪能できた一夜だった。

 

欲を言えば、シメには炒飯が食べたかったのだが。

ある癌患者と義弟と、その兄について

「正月は冥途の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」
と詠んだのは一休禅師だったろうか。

年の初めから人の死について書くのもどうかと思うが、自分の中で抱えていたものをようやく言葉にできるようになった。
だから文章に起こしてみることにした。

これから記すのは一年と少し前、たった四十歳で亡くなった義姉の話だ。

曇天の下に連なった葬列の様子を、今でも鮮明に思い出す。

それは病の発覚から、わずか八か月後の出来事だった。

 

※※

 

当時、義姉は兄とラスベガスに住んでいた。

年末が近くなり、体調不良を訴えて米国で診察を受けようとする。
だけど、米国の医療制度はどうやら崩壊寸前のようで、高額な医療費をふっかけられたり、そもそも診察の予約が取れなかったり、色々とうまくいかないようだった。

そこで年末の里帰りのタイミングで、日本で診察を受けるという話になった。
同じタイミングで帰省した僕は義姉と顔を合わせた瞬間、どうにも顔色が悪いという印象を抱いた。

土気色なのだ。

同じ年の夏にもラスベガスで会ったが、その時も日焼けしたという印象があった。
だが今回のはそれとは違う。明らかに血色が悪い。そして腹痛が酷く、横になって眠れないと言う。
帰国した当日は布団に横たわらず、コタツの座椅子に座って寝ていた。

ああ、調子が悪いのだなと思ったが、それ以上は深刻に考えなかった。

でもその時、僕の嫁はしきりに言っていたのだ。
横になれないほど痛いって異常じゃない?と。

だけどその時は、むやみに深刻になるのはよくないと答えた。

今となって思えば、それは現実から目を背けていただけなのかも知れない。
家族が重篤な病を抱えているかもしれないという不安に、向き合いたくなかっただけかも知れない。

やがて、年明けに診断は下った。

卵巣癌だった。

 

※※

 

年明け、出勤途中の電車の中で、母からのメールで病名を知った。
重たい刃を頭上に振り落とされたような衝撃があった。

若いうちの癌は進行が早い、くらいの認識はあった。
ネットで進行具合と生存率について調べた。

やがて数日のうちに、手術の日程が決まったと知らせがあった。
義姉はうちの実家に近い高松の病院に入院した。

僕は嫁と二人で、鎌倉の上行寺まで癌封じの御守をもらいに行った。タオルと一緒に御守を送り、手術の成功を祈った。

一月の末、手術を終えた義姉は退院した。
転移が無いか、切り取った病巣についての病理検査の結果を待つ。

二月の半ば、病理検査の結果が出る。
初期の卵巣癌、ただし二種類の腫瘍が混在する稀なケース。
いったん落ち着き、医者と相談の末、このまま経過観察という結論を出す。

日本でしばらく療養した後、三月下旬に兄と義姉はラスベガスへ帰っていった。

義姉たちも、うちの両親も楽観的だった。
初期の癌であり、手術によって患部は取り除いた。
何と無く、このまま大過無く終わる気がしたのだ。

そして四月中旬。
卵巣癌が再発の疑いとのことで、義姉が米国で手術するという報せが入った。


※※


再発を報せてきたのは母だった。

仕事中だったが、嫌な予感がして電話に出た。
義姉の容態が悪く、強い痛みを訴えている。飛行機に乗せて日本に連れて帰れる状態ではないし、一刻を争うので米国で手術をしてくれる病院を探していると。

電話の向こうでは母は言った。
もしそうなったら、手伝いが必要になる、だとしたら、私が行こうと思う、と。

だが母は英語が喋れるわけでもない。
あちらに行っても、むしろ足手まといにならないだろうか。
そんな思いが頭を掠めたが、何と答えていいか分からなかった。

たった三か月で癌が再発したと言われ、混乱していた。
しかも、義姉は遠い米国にいる。

果たして、米国で手術に踏み切っていいのか?
痛みが治まるのを待って、日本に戻った方がいいんじゃないのか?
だが待っていれば痛みが治まるものだろうか?
迷っている間にも、癌が進行して取り返しがつかなくなるんじゃないだろうか?

僕は何も建設的なことが言えず、いったん電話を切った。
色んな可能性がグルグル回って、考えがまとまらない。

一度、日本の病院で手術した義姉を、別の病院、しかも外国で対応することに対する不安。
そして高額な米国の医療費。加入している保険によっては、一回の検査で数十万円。盲腸の手術で数千万請求されるとも聞く。

だが、義姉は激痛のあまり動かせない。

何が正解が分からない。一日、仕事が手につかなかった。

やがて夕方にり、母からメールが届いた。
たった一行のメッセージだった。

“今から、アメリカに行ってきます”

何だかわからないけど、その一言に親の決意みたいなものを感じた。


※※


うちの母親は破天荒だ。
あの世代の女性にしては冒険としか思えないようなことを、平気でやってのける。
対照的に父親はリアリストで、そうした母の振る舞いを見守りつつ、いつも文句を言っている。この時の母親の渡米に対しても、父親は文句を言っていた。
旅行保険も掛けずに飛び出して行ったからだ。

だが振り返って考えると、母は自分の役割をきっちりと果たしたのかも知れない。

この時期の兄夫婦は本当に追い詰められていたと思う。

義姉は不安だったはずだ。
遠い異国の地で、得体の知れない病を抱えていた。
そして、ほんの三か月前に開いたばかりの腹をもう一度開く。
病の恐怖から逃げることも出来ず、立ち向かわなくてはならない。

そして手術が終わった後も待ち受けていた苦しみ。
リンパの腫れと思われる痛みが収まらず、原因を特定するための検査が延々と長引く。
僅かな期間で再発したことで、春先に手術した直後に考えていたような、楽観的な状況でないことがはっきりとした。
癌がどこまで転移し、どれほど進行しているか早期につきとめ、対策を取らなくてはいけない。
できれば日本に戻って治療に専念したいが、下手に動かすことはできない。

単なる苦痛ではない。ベッドの上で飛び上がって悶絶し、転げ落ちるほどの苦痛だと言う。鎮痛剤でうまくコントロールできなければ、飛行機になど乗せられるわけがない。

八方塞りの中、耐え続けるだけの毎日。

英語も喋れない母親が、実際どれほど二人の助けになったか、詳しくは分からない。
だが母は兄夫婦の家で留守番をしながら、毎日弁当を作って届けていた。

それが義姉にとって、僅かでも救いであればよかったと願う。


※※


五月。義姉が日本に帰って来た。
日本にたどり着くまで相当な困難があった。後で顔を合わせた時、義姉はこの時のエピソードを、秘境を旅してきた冒険譚でも話すように聞かせてくれた。

同じころ、僕は実家で待つ父と繰り返し電話で会話した。父は感情が昂ぶっており、電話口で何度も怒りを爆発させていた。とにかく母と兄の悪口を言った。
だがそれが実際は、異国で苦しむ義理の娘に対し、何もしてあげられないことに対する苦悩だと理解できた。父親にとってもまた、義姉は二十年も自分の娘だった存在だ。これが病とは別の問題だったなら、父親は真っ先に駆けつけて解決に導いただろう。

やり場のない憤りのせいで家族みんなが傷ついていたし、落ち込んでいた。
義姉に取りついた死神が、その周りの家族に瘴気を浴びせているのがよく分かった。

だから実家に連絡するのは気持ちが重かったが、できる限り電話をした。
僕は死神から一番遠くにいて、瘴気に毒されていないと思っていたからだ。
みんなが地獄の淵に引きずり込まれないよう、遠くから声を掛け続ける必要があるんじゃないかと思っていた。


※※


八月。お盆休みで帰省した。

帰省してまず病院に向かったが、そもそも面会できるかどうかも怪しかった。
義姉は抗がん剤の影響で髪が抜け、やせ衰え、友達との面会さえ断っているということだった。

元気だった頃の義姉は、お日様のように明るい人だった。
地元を離れて二十年も経つのにいまだに関西弁で、ちょっと天然で、身の回りで起きた小さな出来事を、独特の語り口で笑い話に変えて聞かせてくれる。

彼女がラスベガスで働いていた居酒屋の“オヤカタ”と“アニキ”のエピソードだけで、一晩中笑い転げたものだ。

他人のことを、とにかく気遣う人でもあった。
看護師の迷惑を考えて、ナースコールを押さないのだと母がぼやいていた。モルヒネを使って痛みと戦っているような本人が、だ。

人間には必ず陰と陽の面があると思う。だけど彼女は陰の部分を母親のお腹に忘れてきたんじゃないかと思うような人だった。

そんな彼女だからこそ、やつれ果てた自分の姿をみんなに見せたくないと思っているようだった。
それに、薬が効いている状態では朦朧としてまともに話ができない。

その頃、日常的に義姉と接しているのは兄と母だけになった。
父も義姉に遠慮して、病室に出入りしないようにしているようだった。

会えるかどうか分からないまま病院に向かっていると、兄からメールが入った。今なら少しだけ顔を合わせられるだろう、と。
病室の場所を教えられた僕は、父と嫁と一緒に向かうことにする。

一つだけ決めていたことがあった。
絶対に悲壮な顔はしないでおこうと。

事態が深刻であることは当人が一番分かっていることであり、そんな負の感情を煽り立てることはせず、できる限り“なんでもない”ように振舞った方がいいのではないか。

そう考えながら病室に入った瞬間、笑顔が凍りついた。

ベッドに横たわっていたのは、人相が変わり果てた義姉だった。特殊メイクにしか見えないほどガリガリに痩せているせいで、目が落ち窪み、顔の輪郭が変わっている。
薬が効いているのか、目に力が無い。
消え入りそうな声で、何か話しかけてきた。

何を話したのかは全く覚えていない。父が何事か言いながら、義姉のガリガリの腕を撫でたのだけは覚えている。それ以外は、自分が泣き崩れないよう、感情のメモリを必死に調整していた記憶しかない。

部屋の片隅に、死神がいた。
そいつはこっちをじっと睨んでいて、僕たちが取り乱した瞬間、義姉の生命を奪っていくような気がした。

だから僕たちは精一杯の虚勢を張って“なんでもない”ように振舞った。
だがそれも数分が限界だった。

僕たちは逃げるように病室を出た。
自分の前を歩く父親が、振り返りもせずに部屋を出たのを覚えている。

死が充満した部屋で、平静を装うのにはとてつもない精神力が必要だ。僕もまた、父の後を追って部屋を出ようとした。

その時。

「またね」

背後から義姉がそう呼びかけてきた。

再会を約束する言葉だった。

僕は義姉の方を振り返った。

 「またね」

ベッドに臥した義姉が、再び口にした。
その声は驚くほど力強かった。
それは再会を誓うことで、己の生命を鼓舞しようとする義姉の祈りにも思えた。

僕もまた、義姉と同じ言葉を口にした後で、力を振り絞って笑みを浮かべ、手を振った。

それが限界だった。

病室を出ると、全員が無言で泣きながら出口を目指していた。


※※


生きている義姉と最後に会ったのはその数日後だ。
義姉は再会の約束を果たしてくれた。

短い夏休みが終わり、東京に戻る前に病室に立ち寄った。

義姉は前回よりも調子が良かったし、僕たちにも心構えができたので少し落ち着いて話すことができた。

アメリカでの手術と、その帰国にまつわる冒険譚を聞いたのはこの時だ。
僕たちは窓辺に腰掛け、義姉の話に笑いながら聞き入った。

義姉の病室の窓辺からは夏祭りの花火が見えるという。
特等席だね、とそんな話をした。

この時も、他愛も無い話に終始した。
もしあの時、これが最後の時間だと分かっていたら、僕はもっと他の話をしただろうか?

彼女には色んな感謝の思いがあった。
二十年も僕の姉でいてくれた人だ。

僕のことを実の弟のように思い、面倒を見てくれた。
僕と兄との間に割って入って「兄やねんから」と諭してくれた。
僕が家族に相談しづらいような話を聞いてもらったこともある。
そして何より、偏屈でマイペースな僕の兄を、世界中の誰よりも優しく支えてくれた人だった。

だけどその時も、部屋の片隅には死神がいたのだ。
僕たちが義姉の死を受け入れた瞬間、彼女の生命を奪っていこうと手ぐすねを引いていた。
だから結局、義姉に対する感謝の言葉やお別れを、本人に伝えることはできなかった。
彼女の最期を認めたことになるから。

僕は帰り際、今度は自分から声をかけた。

「またね」と。

だがその誓いが守られることは無かった。

 

※※

 

義姉の訃報に接したのは、最後に会ってから一月もたたない九月のことだった。

前日の夜に父親から電話があり、医者が覚悟するように言ったと伝えてきた。

余命宣告は五月だったろうか?
そして覚悟するようにとの医者の言葉。

だが僕は半ば信じていなかった。
正常性バイアスというやつだろうか? 電話をしてきた父に対し、余命宣告の何倍も生きた人の話を引き合いに出した記憶がある。何倍も生きた人の裏で、無数の人たちが余命宣告通り亡くなっている事実を受け入れていなかったからだ。

早朝、母親が電話をかけてきた。努めて淡々と事実を告げた母親に対し、僕は静かに返答し、電話を切って荷造りをはじめた。


義姉の死に際して、一つだけ考え続けていることがある。
それは闘病中、義姉に付き添いつづけた母の言葉を受けて抱いていた疑問だ。

「治療を止めて、緩和ケアに切り替えた方がいいんじゃないの?」

苦痛を取り除く緩和ケアは、癌治療と平行して行われることもあるそうだが、義姉のケースに関して言えば、苦痛の根源である抗癌剤治療そのものを止めることを、母は考えていた。
兄と二人でそのための施設も見学に行っていたようだ。

だが最終的に、義姉は最後まで治療を諦めなかった。

そこには兄の意思も大きく働いていたように思う。
義姉が病に倒れてから、兄は仕事を辞めて看護のために付き添った。自らもあらゆる治療法を調べ、国立がん研究センターに足を運び、未認可の新薬について検討していた。

最後に会った時も、義姉と兄は次の抗癌剤投与に向けて作戦を練っていた。
二人で癌と戦っていたのだ。

その判断は正しかったのだろうか?
どうせ助からないのなら、苦痛を取り除く緩和ケアを行った方が幸せだったのではないだろうか?

その答えは一生見つからない気がする。

だが僕は、義姉が抗癌剤治療について話をしてくれた時に
「しばらく前に、すごく薬が効いて、もうこのまま治るんやないかと思ったんやけどな」
と、悔しそうに語ったのを覚えている。

それを聞いた時、衝撃を受けた。
こんなにガリガリに痩せ衰え、部屋の片隅で死神が鎌を研いでいるのに、この人は“諦めていない”のだと理解した。

そういう意味では、とっくに諦めていたのは僕たちの方だった。

こんなに衰弱した彼女が、凄まじい勢いで襲い掛かる死と立ち向かっているのだと気づいた時、僕は“生きる”ということの意味を理解した気がした。

人間は誰しも、生れ落ちた瞬間から死に向かって進み続ける。
日々の営みは全て、歩み寄ってくる死を少しでも遠ざけるための努力に他ならない。
息をして、糧を得て、病を避け、子を成そうとする。

死に対して抗うことを止めた瞬間、人は生きていないことになる。

だとしたら。

どんなに苦痛に満ちていたとしても、治療を止めた瞬間、義姉は生きる希望を失うことになる。今縋っている“治るかもしれない”という微かな希望を断ち切られてしまうことになる。

それはどんなに恐ろしいことだろう。

母は僕に対して、何度も緩和ケアのことを口にした。
もう見ていられない、とも言った。
楽にしてあげたい、と。
でも、もしかしたら、それは見守る側の人間が抱いた幻想だったかも知れない。

本当のところはきっと誰にも分からない。義姉にだって分からないだろう。苦しい時は殺して欲しいと思ったことがあるかも知れない。抗癌剤は辛い、もう止めたいと母にこぼしたこともあると言う。

だが彼女は生きることを諦めず、闘い抜いて、だから絶望することが無いまま亡くなった。

そう信じたい。
それは僕の勝手な思いだけど。

日曜の朝、東京を発った。
義姉に別れを告げるために。

 

※※

 

兄のことを、書いておこうと思う。
病の発覚から、文字通り二十四時間三百六十五日、義姉に付き添った兄について。

当時、兄はニューヨークで新規事業の立上げに参画する予定で引越の準備をしていた。アメリカでスタートアップを成功させることを目指してきた兄にとって、乾坤一擲の機会だったことは確かだ。

だが義姉の看病に専念するため、兄はその事業から離れることになった。
それからというもの、義姉の病室に寝袋を持ち込んで泊り込み、最後の瞬間まで共にすることになる。

それが正しいやり方だったのかどうかは、分からない。

義姉の看病という意味でも、兄のキャリアという意味においても。

ただ、とある病院関係者が言っていた言葉を思い出す。
「死を間近にした重病患者の病室には、自然と家族が寄り付かなくなる。死の気配は人を憂鬱にし、精神的なエネルギーを磨耗させるから」

だがウチの兄は出て行こうとしなかった。
むしろ寝袋を持って立て篭ったのだ。死神だって困惑したことだろう。
この絶望に包まれた闘病劇の中で、こちらを無慈悲に蹂躙する運命側に対し、人間側はただ一発だけ反撃を試みた。

それが兄の存在だった。

主治医が余命宣告し、国立がん研究センターにも諦めろと諭されたけど、兄だけは諦めなかった。治療をしてくれる医者を探して日本のあちこちを訪ね、がん治療新薬の製薬会社も引っ張り出した。
ずっと文句を言っていた父が、その兄の後押しをした。自分の人脈を総動員して、息子の挑戦を支えた。

その努力が役に立ったかどうかは分からない。

最終的には癌に敗北するのだから、見る人から見ればその行為はピエロにしか見えないだろう。
それにふと思うことがある。兄が闘病に固執したから、義姉は治療を止めることができなかったのかも知れないと。

そういう意味で、兄の判断が正しかったかどうは、分からない。


だが僕は、こんな人を他に知らない。

嫁のために仕事を投げ出して病室に泊り込み、朝から晩まで癌について調べて一緒に戦う人を。
兄は最後まで、義姉にとっての救いであろうとした。

ずいぶん前に、結婚披露宴の挨拶で兄が何気なく口にした言葉が印象に残っている。
「僕たち二人はこれから……まぁ一生一緒にいるわけなんですけども……」
それは本当に何気なく、当たり前の言葉として口にされたから、逆に強い印象を与えた。
兄は義姉と一生添い遂げることを露ほども疑わず、そして最期の瞬間までその言葉に忠実だった。


義姉が亡くなった日。
最初の飛行機で実家にたどり着いた僕は、がらんとした家の中で兄の姿を探した。両親はまだ葬儀場にいて、兄だけが荷物を取りに戻ったと聞いたからだ。

顔を合わせた瞬間、兄が僕に抱きついて泣き崩れた。
生まれてこの方、兄が泣く場面などほとんど見たことが無い。

ましてや、自分の肩を貸す日が来るとは思いもしなかった。

兄は敗北した。癌は無慈悲に義姉の生命を奪っていった。
この物語に一発逆転の勝利は無い。善良なる市民が抗い、努力し、もがき苦しんだ挙句、奈落へと蹴落とされるだけの話だ。

だが一つだけ言えることがあるとすれば、兄は自分の全てを擲って義姉に尽くしたということだ。
その振る舞いについて省みた時、後悔することは多くは無いだろう。

義姉はそんな兄をどう思っただろうか?
少しは、うっとおしいと思ったかも知れない。
でも自分のために全てを捧げてくれた夫を、誇らしく感じてくれたのだと思いたいし、そう信じたい。

そして少なくとも僕は、自分の兄を誇りに思っている。

こんな人を他に、僕は知らないからだ。

 

※※

 

最後に。

曇天の下、義姉の葬列を前に考えていたことを思い出す。

義姉の死は、僕たちに何かをもたらすのだろうかと。

人生に起きる出来事は全て意味があるのだと考えたかった。この悲劇もまた、僕たちを導くための天の采配なのではないだろうかと。

だがあれから一年以上が経過したが、今の時点では、単に不幸の爪痕が残されただけだ。

義姉の闘病を境に、家族それぞれが傷つき、仲違いし、積み上げてきた幸福が吹き飛ばされたのを感じた。
これまで我が家は強い結束で結ばれていた。
どんなにしんどいことがあっても、家族が集まれば笑いあって幸せに過ごせる。それぞれが未来に向けてチャレンジをしていて、今よりも幸せな未来が待っている。なぜかそう信じて疑わなかったのに、その不文律が崩れた気がしていた。

僕は生まれて初めて、心の底から笑えない一年を過ごした。

あの一件を境に、家族それぞれが変わってしまったことは否めない。

最初に心配したのは、兄のことだった。二十年も彼を支え続けてきた義姉を失い、がっくりと落ち込んでいた。
続いて変化を感じたのは、父のことだ。偏屈なのは前からだが、明らかに怒りっぽくなっていた。
母は一番悲劇に耐えたように思えたが、ずっと義姉に付き添っていたのだから、心労が蓄積していないはずはなかった。
僕に関して言えば、自分の未来に対して暗い影を感じるようになった。
はっきり言えば、死を意識するようになったと言う事だ。自分の人生が後どれほど残されているかについて、考えることが増えた。

この傷はいつか癒えるのだろうか?

和らぐことはあるかも知れない。だが元通りには決してならないだろう。義姉は去ってしまったし、もう一度家族がそろうことは叶わない。

死神は姿を消したが、僕たち家族に暗い影を落としたままだ。
何度も言うように、この物語に救済の面は無い。運命は残酷で、義姉を奪っていっただけで何も残さなかった。

だから僕は、自分で何とかするしかないと考えるようになった。

運命はこちらの都合など考えてはくれない。奪う時はただ奪い、等価交換などしない。だったら自分で何かを見つけ出すしかないだろう。
僕は義姉の記憶を胸に刻み込むことにした。
これから生きていく上で、僕たちの前には様々な困難が立ちふさがるだろう。もしそんな時、自分がくじけそうになったら、義姉の言葉を思い出そうと考えている。

彼女は「またね」と再会を誓った。
まだ諦めていなかったからだ。
義姉は生きていたかった。だから最後まで死に立ち向かった。

たった四十歳で命を奪われた彼女と比べれば、僕らの抱える困難なんか、どれほどのものか。
義姉のことを思えば、どんなに惨めで辛い思いをしても乗り越えられるはずだ。

だって僕らは生きている。
彼女があれほどまで望んだ生を得ているのだから。

うまくいかないことが立て続いて、本当に落ち込んでいた時に義姉のことを思い出した。
五体満足な自分が落ち込んでいることが申し訳なく思えて、再び立ち上がることができた。

もしそれが新たに得た強さだとしたら、それは本当にささやかな代物で、義姉の命と引換えだと考えるとまったく割に合わない贈り物のように思えた。
できれば神様に投げ返し、義姉を戻して欲しいくらいだ。

だがそれが叶わない以上、僕は贈り物を握り締めて生きていくしかない。

今は掌をほんの少し暖めるだけの、ささやかな力だ。
だがいつか、これを手に持てないほど熱い力に変えるのは、自分自身の務めだと思っている。

義姉が見ているのだから、みっともない生き方はできない。いつか彼岸で再会した時に、あのお日様のような笑顔に褒めてもらえるように。

 自分なりに、精一杯生きて行こうと思う。

出来過ぎた日本の自販機と、マイアミに鳴り響いた19ドル90セント

なか卯”で親子丼を食べていると、店の入口で怒鳴り声がした。

ふと見ると、入口近くにある食券の券売機の前で、50歳くらいのお父さんが店員を相手に顔を真っ赤にしている。

手に握りしめているのは一万円札。

「一万円が、使えないじゃないか!」

その券売機には千円、五千円、一万円札対応と書かれていたけど、故障していたらしい。なのでお父さんは店員に怒鳴り散らしていた。

挙句─。

「もういい!親子丼なんかいらん!」

と叫んで店を出て行ってしまう。ベトナムからの留学生っぽい店員が、お父さんの背中を悲しそうな顔で見送った。

いい年した大人が、一万円札が使えないくらいで激昂するその光景を見て、僕は思った。日本は本当に自動販売機大国なのだと。

 

 

賢すぎる日本の自動販売機

よく言われることだけど、日本は海外と比べて自動販売機の普及が進んでいる。治安が良く、人口密度が高いことがその成功の秘訣だと言われている。

 

その一方で、日本人のシャイな国民性も影響してるのでは?と僕は思う。

通勤途中の風景を見ればそれは一目瞭然だ。日本のキオスクでは、手練れの売店のおばちゃんが、小銭と引き換えにスポーツ新聞をシュリケンのように投げて寄越す。会話は介在しない。

だがイタリア人はバールに立ち寄っては、買ったコーヒーが冷めるくらいお喋りを続けるのだ。

 

シャイな日本人は自販機の普及と、進化をドンドン進めることとなった。

日本コカ・コーラはアプリで操作できる自販機(自販機を操作できるアプリ?)まで開発してしまった。

 

c.cocacola.co.jp

 

 数年前からよく見かけるようになった、「acure(アキュア)」という自動販売機も実に日本的だ。これまでモックアップを張り付けていた飲料サンプルを、液晶表示にすることで不要にした。

その上この自販機は顔認証機能を備えており、飲料を購入しようとする人の年齢・性別を識別して「最適な商品をオススメ」してくるのだ。

 

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実に日本的だ。クールで便利、ハイテクだが、ちょっとだけ「いらない」機能を付けてしまうあたりが。

 

ミスを許さない日本人。“出来過ぎ”を“当たり前”に

話は“なか卯”に戻る。

激昂して帰って行ったお父さんについて。

なか卯の券売機は、タッチパネル式の液晶画面を備えたハイテクな奴だ。普通なら、店員の助けなんか借りなくても、スッスとオーダーを済ませられる。

だけどその自販機が故障して、お父さんの一万円札を受け付けなくなった。

やはりこういう時、自販機大国の 国民は怒り出すのだ。

日々ハイテクに囲まれて暮らしているせいで、あらゆる機械が精密・精緻に動かなくては気が済まない。

新幹線が一分遅れると謝罪のアナウンスが流れ出す。

自動改札機にかざしたSUICAの反応が悪くてもイラッとしてしまう。

海外と比較して見れば驚異的な精度で動いている“出来過ぎた”システム。だがそれが日常となっているため、出来て“当たり前”になっている皮肉だろう。

 

マイアミに響いた19ドル90セント

話は変わるが、先日フロリダに行って来た。

燦々と降り注ぐ太陽、のんびりとしたビーチリゾートやキューバ料理の話はまた別の機会に譲るとして、忘れがたい思い出が一つある。

 

一週間ほどの旅行が終わりに近づいたある日のことだ。

財布に釣銭のコインがやたらと貯まっていた。海外の硬貨はパッと見で額面が分かりにくく、買い物の時に使うのを躊躇してしまうからだ。

このコインをどう消費したものか考えていた。小銭を積み重ねてスタバでコーヒーでも買えばいいのだろうが、何となく気恥ずかしい。

そんな時、出かけた先のショッピングモールでスナック菓子の自販機を見つけた。

そうか、自販機なら落ち着いて小銭だけで買い物ができる。

そう考えた私は、財布からコインを取り出して投入し始めた。

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自販機は25セントだけでなく10セントも受け付ける仕様だった。次々にコインを投入し、1ドル60セントほども入れたところで、コインが尽きた。

だが買おうと思ったポテトチップスには10セント足りない。

私は苛々して財布を探ったが、残りは5セント、1セント硬貨しか残っていなかった。

仕方なく、紙幣を入れようと財布を探ると、これまた運悪く20ドル札しかない。まあいいかとそれを突っ込んで、商品ボタンを押した。

 

チャリン、チャリン。

 

機械が動作し、ポテトチップスが棚から押し出されると同時に、釣銭が返却される音が響き渡った。それを耳にした瞬間、ハッとなった。

21ドル60セント投入して、お釣りは19ドル90セント。

日本の賢い自販機であれば、まず19ドル分の紙幣が返却され、続いてコインが戻ってくるはずだ。

だがしかし、耳を打つのはチャリン、チャリンという硬貨が落下する音だった。

これは、まずい。

アメリカのアホな自販機は全額、コインで返却するつもりだ。

財布の小銭を減らそうとしたはずが、圧倒的に増加させて何とする。これではまるで、こぶとり爺さんに出てくる悪い爺さんのようではないか。

慌てて自販機を止めようと、キャンセルボタン的なものを探す私を、さらなる驚愕の事態が襲った。

 

カチャーン、カチャーン。

 

釣銭を返却する音が変化したのだ。

コインが釣銭受けに落下する音が消え、自販機の内部でパーツが動作する音だけが鳴り響く。

これはつまり、自販機の内部に蓄積されていた釣銭が切れたことを意味する。

僕は唖然とした。この自販機は、釣銭が切れたにも関わらず返却動作を止めようとしないのだ。エラーになって止まったりしない。

カチャーン、カチャーン。

 

僕は自販機を叩き、揺さぶり、あらゆるボタンを押した。ちょっと待て、気は確かか?お前(自販機)は釣銭を返したりはしていない。そのカチャーンという音を止めろ。

やがて自販機は19ドル90セント分の返却音をきっちりと鳴らした上で、動作を止めた。

 「お釣り、返しましたやろ?」

そう言って、すっきりとした顔で笑っているように見えた。

私は悔しさに震えながら自販機から商品を取り出した。21ドルもするポテトチップスだ。ソルトビネガー味だったが、むしろ涙の味に思えた。

 

なか卯”で激昂して帰ったお父さんは、一万円札が使えなかったことに激昂して帰って行った。だがマイアミで自販機に20ドルを毟り取られた私からすれば、贅沢極まりない態度に思える。

提供されているサービスが少しくらい不具合を起こしているからと言って、それが怠慢や悪意の類でない限り、少しくらい多めに見る寛容さが必要ではないだろうか。

それが現代日本に心の豊かさと、情緒の潤いをもたらすと信じている。

 

さて、このブログをアップしようとしたが、どうやらスタバのWi-Fiの調子が悪いようだ。この件についてはきっちり店側に抗議してくるとしよう。

映画「クリード」と強いパンチを浴びる人生

ふと、思い立って「クリード」という映画を観て来た。

昨年末に公開された「ロッキー」シリーズの最新作だそうだ。

頭の中からロッキーのテーマ曲が離れない。
そんな出来事があって背中を押されたのだった。

※この記事は盛大なネタバレを含んでいる。読む前に今すぐ映画館に行き「クリード」を観ることをお勧めする※

wwws.warnerbros.co.jp

 

●地雷臭に満ちた「ロッキー」のスピンオフ映画

はじめて「クリード」について聞いた時、ちょっと思ったのだ。
「あれ?ロッキーって7年ぐらい前にシリーズ完結を宣言してなかったっけ?」

そう、還暦を迎えたロッキー・バルボアが、一夜限りの復帰戦に挑む名作「ロッキー・ザ・ファイナル」がシリーズの最終作だったはず。

僕だけじゃない。「クリード」の話を耳にしたあらゆる映画ファンは考えたはずだ。

「どうしたスタローン。終わったはずのシリーズをまた引っ張り出すとは、引退を撤回しまくる大仁田厚みたいじゃないか」と。

クリード」のあらすじは、かつてのライバルだったアポロ・クリードの息子をロッキーが鍛えるというもの。
今年70歳になるスタローンが、自分じゃもうアクションは無理だからアポロの思い出まで引っ張り出して映画を作ろうとしているのか?

これは何だかもう、地雷臭しかしない。

そう思ったのだが、どうやら実態は少し違うみたいだ。

この映画は厳密には「ロッキー」ではなかった。

 

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●スタローンの人生を反映させたのが「ロッキー」

「ロッキー」は、とある三流ボクサーが世界チャンプとの試合に挑むという物語だ。

シリーズは6作目まで作られて大ヒットしたが、1作目の「ロッキー」が生まれた背景にはドラマがある。

 当時、無名だったシルベスター・スタローンは、モハメド・アリと戦ったチャック・ウェプナーというボクサーの健闘に感動し、3日で「ロッキー」の脚本を書き上げる。その出来に関心した映画会社が脚本を高値で買い上げようとするが、スタローンは自分を主演とする条件を譲らず、結果的に「ロッキー」は低予算映画として制作される。

 ロッキーは三流ボクサーで、チンピラの手先になるようなダメ人間。すでに中年に差し掛かりつつあるが、人生の勝利とは程遠い場所にいる負け犬だった。

だがそんなロッキーがエイドリアンと出会い、愛する彼女のために世界チャンピオンのアポロ・クリードに立ち向かう。

試合前にロッキーはつぶやく。
「もしも試合が終わっても立っていられたなら、俺は自分がただのチンピラじゃないと証明できる気がする」

そしてロッキーはアポロと戦い、フルラウンドの死闘の末に判定負けとなる。

 

ボクサーが戦って、負ける物語。

端的に形容すればそれだけの話なのだが、映画を観た人は誰もロッキーが負けたなんて思わない。
試合終了の直後、ボコボコに殴られ、腫れあがった顔でロッキーは愛する人の姿を探す。そしてエイドリアンと抱き合い、映画は終わる。

試合には負けたけど、ロッキーは自分自身を証明し、愛を手にすることができた。
周囲からは馬鹿にされ、手も足も出ずに秒殺されると思われていたけど、ロッキーは最後まで諦めず、ダウンしても立ち上がったからだ。

 その姿は当時のシルベスター・スタローンとぴったり重なる。

負け続けの人生、だけど諦めずに、諦めずに前へと進むことで、いつか勝利を掴む。

 

 実際に「ロッキー」は大当たりし、無名の三流役者だったスタローンは一躍スターになった。

 

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●「クリード」の企画を持ち込んだ20代の映画監督

「ロッキー」シリーズは全てスタローンが脚本を手掛けている。だがこの「クリード」の脚本・監督を務めているのはライアン・クーグラーという新人映画監督だ。

彼はこの企画をスタローンに持ち込み、映画化を懇願したそうだ。

当初、スタローンは断った(本人によればノー、ノー、ノーと言ったらしい)。シリーズは6作目で綺麗に完結していたし、新たに映画を撮る理由が無かったからだ。
だが最終的には根負けし、映画への出演を承諾した。

この話そのものが、まるで「ロッキー」の再現だ。スタローンは若い無名の映画監督に、かつての自分と同じ情熱と執念を見たのだろう。

テンポの良い映像、不器用でリアリティのある恋愛ドラマ。ロッキーを下敷きにしつつも、より現代的な映画に仕上がっている(特にノーカットで繰り広げられる中盤の試合シーンは圧巻だ)。「クリード」は新たな若い才能によって、従来の「ロッキー」シリーズとは少し違った趣を打ち出した。

 

だが内包するテーマは同じだ。

主人公である若いボクサー、アドニス・クリードは父の名を背負って無敗のチャンピオンに立ち向かう。物語のラスト、フルラウンドの死闘の末、アドニスは惜しくも勝利を逃す。

この敗北こそが、「ロッキー」シリーズの本質だと思う。

「ロッキー」でもシリーズ最終作の「ロッキー・ザ・ファイナル」でも、主人公が試合に負けて物語が終わる。

だけど勝とうが、負けようが結果は関係ない。

立ち向かう者の美しさを讃える物語だからだ。

 

 

●人生で大切なのは勝利ではない

勝利だけが人生のゴールではない。

多くの人にとって、敗北こそが日常だ。
人生には大なり小なり、あらゆる形の敗北が立ち塞がっている。勝ち続けられる人間はいない。 

もしも奇跡的に無敗を貫けたとしても、人生の最期には死という敗北が待っている。
その終局から逃れられる人間はいない。
勝利だけが人生の価値だと考えていたなら、最期の瞬間、人生の旅立ちはひどく味気ないものになってしまうだろう。

6作目の「ロッキー・ザ・ファイナル」で、ロッキーが自分に反発する息子に語るシーンがある。

「人生で大切なのは、どれだけ強いパンチが打てるかじゃない。どれだけ強いパンチに耐えられるかだ」

ロッキーの物語の中で最重要なのは、勝利ではない。

勝つことが素晴らしく、負けることが無様だとされがちな現代で、こういう泥臭い美学を持つことも大切なのではないだろうか。

 「クリード」の中で、ロッキーがアドニスにシャドーボクシングを教えるシーンでのセリフがある。

「鏡の中にいる奴を見ろ。そいつは何度もお前に立ち向かってくる手強い相手だ。そいつに打ち勝て。ボクシングも、人生も同じだ」

多くの人にとって、敗北を運んでくるのは自分だったりする。 

そいつと向き合い、諦めずに立ち向かう勇気を持つこと。その大切さを教えてくれる映画なんだという気がする。

 

 

つい先日、ロッキーのテーマ曲を愛した人を見送った。

きっと、強いパンチを耐えながら過ごした人生だったのだろう。

くたびれ果てていたけど、いい顔で眠っていた。