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風とビスコッティ

第3回ゴールデンエレファント賞受賞「クイックドロウ」作者です。ある日ブログのタイトルを思いついたので、始めることにしました。できれば世の役に立つ内容を書き記していきたいと思っています。

ある癌患者と義弟と、その兄について

「正月は冥途の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし」
と詠んだのは一休禅師だったろうか。

年の初めから人の死について書くのもどうかと思うが、自分の中で抱えていたものをようやく言葉にできるようになった。
だから文章に起こしてみることにした。

これから記すのは一年と少し前、たった四十歳で亡くなった義姉の話だ。

曇天の下に連なった葬列の様子を、今でも鮮明に思い出す。

それは病の発覚から、わずか八か月後の出来事だった。

 

※※

 

当時、義姉は兄とラスベガスに住んでいた。

年末が近くなり、体調不良を訴えて米国で診察を受けようとする。
だけど、米国の医療制度はどうやら崩壊寸前のようで、高額な医療費をふっかけられたり、そもそも診察の予約が取れなかったり、色々とうまくいかないようだった。

そこで年末の里帰りのタイミングで、日本で診察を受けるという話になった。
同じタイミングで帰省した僕は義姉と顔を合わせた瞬間、どうにも顔色が悪いという印象を抱いた。

土気色なのだ。

同じ年の夏にもラスベガスで会ったが、その時も日焼けしたという印象があった。
だが今回のはそれとは違う。明らかに血色が悪い。そして腹痛が酷く、横になって眠れないと言う。
帰国した当日は布団に横たわらず、コタツの座椅子に座って寝ていた。

ああ、調子が悪いのだなと思ったが、それ以上は深刻に考えなかった。

でもその時、僕の嫁はしきりに言っていたのだ。
横になれないほど痛いって異常じゃない?と。

だけどその時は、むやみに深刻になるのはよくないと答えた。

今となって思えば、それは現実から目を背けていただけなのかも知れない。
家族が重篤な病を抱えているかもしれないという不安に、向き合いたくなかっただけかも知れない。

やがて、年明けに診断は下った。

卵巣癌だった。

 

※※

 

年明け、出勤途中の電車の中で、母からのメールで病名を知った。
重たい刃を頭上に振り落とされたような衝撃があった。

若いうちの癌は進行が早い、くらいの認識はあった。
ネットで進行具合と生存率について調べた。

やがて数日のうちに、手術の日程が決まったと知らせがあった。
義姉はうちの実家に近い高松の病院に入院した。

僕は嫁と二人で、鎌倉の上行寺まで癌封じの御守をもらいに行った。タオルと一緒に御守を送り、手術の成功を祈った。

一月の末、手術を終えた義姉は退院した。
転移が無いか、切り取った病巣についての病理検査の結果を待つ。

二月の半ば、病理検査の結果が出る。
初期の卵巣癌、ただし二種類の腫瘍が混在する稀なケース。
いったん落ち着き、医者と相談の末、このまま経過観察という結論を出す。

日本でしばらく療養した後、三月下旬に兄と義姉はラスベガスへ帰っていった。

義姉たちも、うちの両親も楽観的だった。
初期の癌であり、手術によって患部は取り除いた。
何と無く、このまま大過無く終わる気がしたのだ。

そして四月中旬。
卵巣癌が再発の疑いとのことで、義姉が米国で手術するという報せが入った。


※※


再発を報せてきたのは母だった。

仕事中だったが、嫌な予感がして電話に出た。
義姉の容態が悪く、強い痛みを訴えている。飛行機に乗せて日本に連れて帰れる状態ではないし、一刻を争うので米国で手術をしてくれる病院を探していると。

電話の向こうでは母は言った。
もしそうなったら、手伝いが必要になる、だとしたら、私が行こうと思う、と。

だが母は英語が喋れるわけでもない。
あちらに行っても、むしろ足手まといにならないだろうか。
そんな思いが頭を掠めたが、何と答えていいか分からなかった。

たった三か月で癌が再発したと言われ、混乱していた。
しかも、義姉は遠い米国にいる。

果たして、米国で手術に踏み切っていいのか?
痛みが治まるのを待って、日本に戻った方がいいんじゃないのか?
だが待っていれば痛みが治まるものだろうか?
迷っている間にも、癌が進行して取り返しがつかなくなるんじゃないだろうか?

僕は何も建設的なことが言えず、いったん電話を切った。
色んな可能性がグルグル回って、考えがまとまらない。

一度、日本の病院で手術した義姉を、別の病院、しかも外国で対応することに対する不安。
そして高額な米国の医療費。加入している保険によっては、一回の検査で数十万円。盲腸の手術で数千万請求されるとも聞く。

だが、義姉は激痛のあまり動かせない。

何が正解が分からない。一日、仕事が手につかなかった。

やがて夕方にり、母からメールが届いた。
たった一行のメッセージだった。

“今から、アメリカに行ってきます”

何だかわからないけど、その一言に親の決意みたいなものを感じた。


※※


うちの母親は破天荒だ。
あの世代の女性にしては冒険としか思えないようなことを、平気でやってのける。
対照的に父親はリアリストで、そうした母の振る舞いを見守りつつ、いつも文句を言っている。この時の母親の渡米に対しても、父親は文句を言っていた。
旅行保険も掛けずに飛び出して行ったからだ。

だが振り返って考えると、母は自分の役割をきっちりと果たしたのかも知れない。

この時期の兄夫婦は本当に追い詰められていたと思う。

義姉は不安だったはずだ。
遠い異国の地で、得体の知れない病を抱えていた。
そして、ほんの三か月前に開いたばかりの腹をもう一度開く。
病の恐怖から逃げることも出来ず、立ち向かわなくてはならない。

そして手術が終わった後も待ち受けていた苦しみ。
リンパの腫れと思われる痛みが収まらず、原因を特定するための検査が延々と長引く。
僅かな期間で再発したことで、春先に手術した直後に考えていたような、楽観的な状況でないことがはっきりとした。
癌がどこまで転移し、どれほど進行しているか早期につきとめ、対策を取らなくてはいけない。
できれば日本に戻って治療に専念したいが、下手に動かすことはできない。

単なる苦痛ではない。ベッドの上で飛び上がって悶絶し、転げ落ちるほどの苦痛だと言う。鎮痛剤でうまくコントロールできなければ、飛行機になど乗せられるわけがない。

八方塞りの中、耐え続けるだけの毎日。

英語も喋れない母親が、実際どれほど二人の助けになったか、詳しくは分からない。
だが母は兄夫婦の家で留守番をしながら、毎日弁当を作って届けていた。

それが義姉にとって、僅かでも救いであればよかったと願う。


※※


五月。義姉が日本に帰って来た。
日本にたどり着くまで相当な困難があった。後で顔を合わせた時、義姉はこの時のエピソードを、秘境を旅してきた冒険譚でも話すように聞かせてくれた。

同じころ、僕は実家で待つ父と繰り返し電話で会話した。父は感情が昂ぶっており、電話口で何度も怒りを爆発させていた。とにかく母と兄の悪口を言った。
だがそれが実際は、異国で苦しむ義理の娘に対し、何もしてあげられないことに対する苦悩だと理解できた。父親にとってもまた、義姉は二十年も自分の娘だった存在だ。これが病とは別の問題だったなら、父親は真っ先に駆けつけて解決に導いただろう。

やり場のない憤りのせいで家族みんなが傷ついていたし、落ち込んでいた。
義姉に取りついた死神が、その周りの家族に瘴気を浴びせているのがよく分かった。

だから実家に連絡するのは気持ちが重かったが、できる限り電話をした。
僕は死神から一番遠くにいて、瘴気に毒されていないと思っていたからだ。
みんなが地獄の淵に引きずり込まれないよう、遠くから声を掛け続ける必要があるんじゃないかと思っていた。


※※


八月。お盆休みで帰省した。

帰省してまず病院に向かったが、そもそも面会できるかどうかも怪しかった。
義姉は抗がん剤の影響で髪が抜け、やせ衰え、友達との面会さえ断っているということだった。

元気だった頃の義姉は、お日様のように明るい人だった。
地元を離れて二十年も経つのにいまだに関西弁で、ちょっと天然で、身の回りで起きた小さな出来事を、独特の語り口で笑い話に変えて聞かせてくれる。

彼女がラスベガスで働いていた居酒屋の“オヤカタ”と“アニキ”のエピソードだけで、一晩中笑い転げたものだ。

他人のことを、とにかく気遣う人でもあった。
看護師の迷惑を考えて、ナースコールを押さないのだと母がぼやいていた。モルヒネを使って痛みと戦っているような本人が、だ。

人間には必ず陰と陽の面があると思う。だけど彼女は陰の部分を母親のお腹に忘れてきたんじゃないかと思うような人だった。

そんな彼女だからこそ、やつれ果てた自分の姿をみんなに見せたくないと思っているようだった。
それに、薬が効いている状態では朦朧としてまともに話ができない。

その頃、日常的に義姉と接しているのは兄と母だけになった。
父も義姉に遠慮して、病室に出入りしないようにしているようだった。

会えるかどうか分からないまま病院に向かっていると、兄からメールが入った。今なら少しだけ顔を合わせられるだろう、と。
病室の場所を教えられた僕は、父と嫁と一緒に向かうことにする。

一つだけ決めていたことがあった。
絶対に悲壮な顔はしないでおこうと。

事態が深刻であることは当人が一番分かっていることであり、そんな負の感情を煽り立てることはせず、できる限り“なんでもない”ように振舞った方がいいのではないか。

そう考えながら病室に入った瞬間、笑顔が凍りついた。

ベッドに横たわっていたのは、人相が変わり果てた義姉だった。特殊メイクにしか見えないほどガリガリに痩せているせいで、目が落ち窪み、顔の輪郭が変わっている。
薬が効いているのか、目に力が無い。
消え入りそうな声で、何か話しかけてきた。

何を話したのかは全く覚えていない。父が何事か言いながら、義姉のガリガリの腕を撫でたのだけは覚えている。それ以外は、自分が泣き崩れないよう、感情のメモリを必死に調整していた記憶しかない。

部屋の片隅に、死神がいた。
そいつはこっちをじっと睨んでいて、僕たちが取り乱した瞬間、義姉の生命を奪っていくような気がした。

だから僕たちは精一杯の虚勢を張って“なんでもない”ように振舞った。
だがそれも数分が限界だった。

僕たちは逃げるように病室を出た。
自分の前を歩く父親が、振り返りもせずに部屋を出たのを覚えている。

死が充満した部屋で、平静を装うのにはとてつもない精神力が必要だ。僕もまた、父の後を追って部屋を出ようとした。

その時。

「またね」

背後から義姉がそう呼びかけてきた。

再会を約束する言葉だった。

僕は義姉の方を振り返った。

 「またね」

ベッドに臥した義姉が、再び口にした。
その声は驚くほど力強かった。
それは再会を誓うことで、己の生命を鼓舞しようとする義姉の祈りにも思えた。

僕もまた、義姉と同じ言葉を口にした後で、力を振り絞って笑みを浮かべ、手を振った。

それが限界だった。

病室を出ると、全員が無言で泣きながら出口を目指していた。


※※


生きている義姉と最後に会ったのはその数日後だ。
義姉は再会の約束を果たしてくれた。

短い夏休みが終わり、東京に戻る前に病室に立ち寄った。

義姉は前回よりも調子が良かったし、僕たちにも心構えができたので少し落ち着いて話すことができた。

アメリカでの手術と、その帰国にまつわる冒険譚を聞いたのはこの時だ。
僕たちは窓辺に腰掛け、義姉の話に笑いながら聞き入った。

義姉の病室の窓辺からは夏祭りの花火が見えるという。
特等席だね、とそんな話をした。

この時も、他愛も無い話に終始した。
もしあの時、これが最後の時間だと分かっていたら、僕はもっと他の話をしただろうか?

彼女には色んな感謝の思いがあった。
二十年も僕の姉でいてくれた人だ。

僕のことを実の弟のように思い、面倒を見てくれた。
僕と兄との間に割って入って「兄やねんから」と諭してくれた。
僕が家族に相談しづらいような話を聞いてもらったこともある。
そして何より、偏屈でマイペースな僕の兄を、世界中の誰よりも優しく支えてくれた人だった。

だけどその時も、部屋の片隅には死神がいたのだ。
僕たちが義姉の死を受け入れた瞬間、彼女の生命を奪っていこうと手ぐすねを引いていた。
だから結局、義姉に対する感謝の言葉やお別れを、本人に伝えることはできなかった。
彼女の最期を認めたことになるから。

僕は帰り際、今度は自分から声をかけた。

「またね」と。

だがその誓いが守られることは無かった。

 

※※

 

義姉の訃報に接したのは、最後に会ってから一月もたたない九月のことだった。

前日の夜に父親から電話があり、医者が覚悟するように言ったと伝えてきた。

余命宣告は五月だったろうか?
そして覚悟するようにとの医者の言葉。

だが僕は半ば信じていなかった。
正常性バイアスというやつだろうか? 電話をしてきた父に対し、余命宣告の何倍も生きた人の話を引き合いに出した記憶がある。何倍も生きた人の裏で、無数の人たちが余命宣告通り亡くなっている事実を受け入れていなかったからだ。

早朝、母親が電話をかけてきた。努めて淡々と事実を告げた母親に対し、僕は静かに返答し、電話を切って荷造りをはじめた。


義姉の死に際して、一つだけ考え続けていることがある。
それは闘病中、義姉に付き添いつづけた母の言葉を受けて抱いていた疑問だ。

「治療を止めて、緩和ケアに切り替えた方がいいんじゃないの?」

苦痛を取り除く緩和ケアは、癌治療と平行して行われることもあるそうだが、義姉のケースに関して言えば、苦痛の根源である抗癌剤治療そのものを止めることを、母は考えていた。
兄と二人でそのための施設も見学に行っていたようだ。

だが最終的に、義姉は最後まで治療を諦めなかった。

そこには兄の意思も大きく働いていたように思う。
義姉が病に倒れてから、兄は仕事を辞めて看護のために付き添った。自らもあらゆる治療法を調べ、国立がん研究センターに足を運び、未認可の新薬について検討していた。

最後に会った時も、義姉と兄は次の抗癌剤投与に向けて作戦を練っていた。
二人で癌と戦っていたのだ。

その判断は正しかったのだろうか?
どうせ助からないのなら、苦痛を取り除く緩和ケアを行った方が幸せだったのではないだろうか?

その答えは一生見つからない気がする。

だが僕は、義姉が抗癌剤治療について話をしてくれた時に
「しばらく前に、すごく薬が効いて、もうこのまま治るんやないかと思ったんやけどな」
と、悔しそうに語ったのを覚えている。

それを聞いた時、衝撃を受けた。
こんなにガリガリに痩せ衰え、部屋の片隅で死神が鎌を研いでいるのに、この人は“諦めていない”のだと理解した。

そういう意味では、とっくに諦めていたのは僕たちの方だった。

こんなに衰弱した彼女が、凄まじい勢いで襲い掛かる死と立ち向かっているのだと気づいた時、僕は“生きる”ということの意味を理解した気がした。

人間は誰しも、生れ落ちた瞬間から死に向かって進み続ける。
日々の営みは全て、歩み寄ってくる死を少しでも遠ざけるための努力に他ならない。
息をして、糧を得て、病を避け、子を成そうとする。

死に対して抗うことを止めた瞬間、人は生きていないことになる。

だとしたら。

どんなに苦痛に満ちていたとしても、治療を止めた瞬間、義姉は生きる希望を失うことになる。今縋っている“治るかもしれない”という微かな希望を断ち切られてしまうことになる。

それはどんなに恐ろしいことだろう。

母は僕に対して、何度も緩和ケアのことを口にした。
もう見ていられない、とも言った。
楽にしてあげたい、と。
でも、もしかしたら、それは見守る側の人間が抱いた幻想だったかも知れない。

本当のところはきっと誰にも分からない。義姉にだって分からないだろう。苦しい時は殺して欲しいと思ったことがあるかも知れない。抗癌剤は辛い、もう止めたいと母にこぼしたこともあると言う。

だが彼女は生きることを諦めず、闘い抜いて、だから絶望することが無いまま亡くなった。

そう信じたい。
それは僕の勝手な思いだけど。

日曜の朝、東京を発った。
義姉に別れを告げるために。

 

※※

 

兄のことを、書いておこうと思う。
病の発覚から、文字通り二十四時間三百六十五日、義姉に付き添った兄について。

当時、兄はニューヨークで新規事業の立上げに参画する予定で引越の準備をしていた。アメリカでスタートアップを成功させることを目指してきた兄にとって、乾坤一擲の機会だったことは確かだ。

だが義姉の看病に専念するため、兄はその事業から離れることになった。
それからというもの、義姉の病室に寝袋を持ち込んで泊り込み、最後の瞬間まで共にすることになる。

それが正しいやり方だったのかどうかは、分からない。

義姉の看病という意味でも、兄のキャリアという意味においても。

ただ、とある病院関係者が言っていた言葉を思い出す。
「死を間近にした重病患者の病室には、自然と家族が寄り付かなくなる。死の気配は人を憂鬱にし、精神的なエネルギーを磨耗させるから」

だがウチの兄は出て行こうとしなかった。
むしろ寝袋を持って立て篭ったのだ。死神だって困惑したことだろう。
この絶望に包まれた闘病劇の中で、こちらを無慈悲に蹂躙する運命側に対し、人間側はただ一発だけ反撃を試みた。

それが兄の存在だった。

主治医が余命宣告し、国立がん研究センターにも諦めろと諭されたけど、兄だけは諦めなかった。治療をしてくれる医者を探して日本のあちこちを訪ね、がん治療新薬の製薬会社も引っ張り出した。
ずっと文句を言っていた父が、その兄の後押しをした。自分の人脈を総動員して、息子の挑戦を支えた。

その努力が役に立ったかどうかは分からない。

最終的には癌に敗北するのだから、見る人から見ればその行為はピエロにしか見えないだろう。
それにふと思うことがある。兄が闘病に固執したから、義姉は治療を止めることができなかったのかも知れないと。

そういう意味で、兄の判断が正しかったかどうは、分からない。


だが僕は、こんな人を他に知らない。

嫁のために仕事を投げ出して病室に泊り込み、朝から晩まで癌について調べて一緒に戦う人を。
兄は最後まで、義姉にとっての救いであろうとした。

ずいぶん前に、結婚披露宴の挨拶で兄が何気なく口にした言葉が印象に残っている。
「僕たち二人はこれから……まぁ一生一緒にいるわけなんですけども……」
それは本当に何気なく、当たり前の言葉として口にされたから、逆に強い印象を与えた。
兄は義姉と一生添い遂げることを露ほども疑わず、そして最期の瞬間までその言葉に忠実だった。


義姉が亡くなった日。
最初の飛行機で実家にたどり着いた僕は、がらんとした家の中で兄の姿を探した。両親はまだ葬儀場にいて、兄だけが荷物を取りに戻ったと聞いたからだ。

顔を合わせた瞬間、兄が僕に抱きついて泣き崩れた。
生まれてこの方、兄が泣く場面などほとんど見たことが無い。

ましてや、自分の肩を貸す日が来るとは思いもしなかった。

兄は敗北した。癌は無慈悲に義姉の生命を奪っていった。
この物語に一発逆転の勝利は無い。善良なる市民が抗い、努力し、もがき苦しんだ挙句、奈落へと蹴落とされるだけの話だ。

だが一つだけ言えることがあるとすれば、兄は自分の全てを擲って義姉に尽くしたということだ。
その振る舞いについて省みた時、後悔することは多くは無いだろう。

義姉はそんな兄をどう思っただろうか?
少しは、うっとおしいと思ったかも知れない。
でも自分のために全てを捧げてくれた夫を、誇らしく感じてくれたのだと思いたいし、そう信じたい。

そして少なくとも僕は、自分の兄を誇りに思っている。

こんな人を他に、僕は知らないからだ。

 

※※

 

最後に。

曇天の下、義姉の葬列を前に考えていたことを思い出す。

義姉の死は、僕たちに何かをもたらすのだろうかと。

人生に起きる出来事は全て意味があるのだと考えたかった。この悲劇もまた、僕たちを導くための天の采配なのではないだろうかと。

だがあれから一年以上が経過したが、今の時点では、単に不幸の爪痕が残されただけだ。

義姉の闘病を境に、家族それぞれが傷つき、仲違いし、積み上げてきた幸福が吹き飛ばされたのを感じた。
これまで我が家は強い結束で結ばれていた。
どんなにしんどいことがあっても、家族が集まれば笑いあって幸せに過ごせる。それぞれが未来に向けてチャレンジをしていて、今よりも幸せな未来が待っている。なぜかそう信じて疑わなかったのに、その不文律が崩れた気がしていた。

僕は生まれて初めて、心の底から笑えない一年を過ごした。

あの一件を境に、家族それぞれが変わってしまったことは否めない。

最初に心配したのは、兄のことだった。二十年も彼を支え続けてきた義姉を失い、がっくりと落ち込んでいた。
続いて変化を感じたのは、父のことだ。偏屈なのは前からだが、明らかに怒りっぽくなっていた。
母は一番悲劇に耐えたように思えたが、ずっと義姉に付き添っていたのだから、心労が蓄積していないはずはなかった。
僕に関して言えば、自分の未来に対して暗い影を感じるようになった。
はっきり言えば、死を意識するようになったと言う事だ。自分の人生が後どれほど残されているかについて、考えることが増えた。

この傷はいつか癒えるのだろうか?

和らぐことはあるかも知れない。だが元通りには決してならないだろう。義姉は去ってしまったし、もう一度家族がそろうことは叶わない。

死神は姿を消したが、僕たち家族に暗い影を落としたままだ。
何度も言うように、この物語に救済の面は無い。運命は残酷で、義姉を奪っていっただけで何も残さなかった。

だから僕は、自分で何とかするしかないと考えるようになった。

運命はこちらの都合など考えてはくれない。奪う時はただ奪い、等価交換などしない。だったら自分で何かを見つけ出すしかないだろう。
僕は義姉の記憶を胸に刻み込むことにした。
これから生きていく上で、僕たちの前には様々な困難が立ちふさがるだろう。もしそんな時、自分がくじけそうになったら、義姉の言葉を思い出そうと考えている。

彼女は「またね」と再会を誓った。
まだ諦めていなかったからだ。
義姉は生きていたかった。だから最後まで死に立ち向かった。

たった四十歳で命を奪われた彼女と比べれば、僕らの抱える困難なんか、どれほどのものか。
義姉のことを思えば、どんなに惨めで辛い思いをしても乗り越えられるはずだ。

だって僕らは生きている。
彼女があれほどまで望んだ生を得ているのだから。

うまくいかないことが立て続いて、本当に落ち込んでいた時に義姉のことを思い出した。
五体満足な自分が落ち込んでいることが申し訳なく思えて、再び立ち上がることができた。

もしそれが新たに得た強さだとしたら、それは本当にささやかな代物で、義姉の命と引換えだと考えるとまったく割に合わない贈り物のように思えた。
できれば神様に投げ返し、義姉を戻して欲しいくらいだ。

だがそれが叶わない以上、僕は贈り物を握り締めて生きていくしかない。

今は掌をほんの少し暖めるだけの、ささやかな力だ。
だがいつか、これを手に持てないほど熱い力に変えるのは、自分自身の務めだと思っている。

義姉が見ているのだから、みっともない生き方はできない。いつか彼岸で再会した時に、あのお日様のような笑顔に褒めてもらえるように。

 自分なりに、精一杯生きて行こうと思う。

出来過ぎた日本の自販機と、マイアミに鳴り響いた19ドル90セント

なか卯”で親子丼を食べていると、店の入口で怒鳴り声がした。

ふと見ると、入口近くにある食券の券売機の前で、50歳くらいのお父さんが店員を相手に顔を真っ赤にしている。

手に握りしめているのは一万円札。

「一万円が、使えないじゃないか!」

その券売機には千円、五千円、一万円札対応と書かれていたけど、故障していたらしい。なのでお父さんは店員に怒鳴り散らしていた。

挙句─。

「もういい!親子丼なんかいらん!」

と叫んで店を出て行ってしまう。ベトナムからの留学生っぽい店員が、お父さんの背中を悲しそうな顔で見送った。

いい年した大人が、一万円札が使えないくらいで激昂するその光景を見て、僕は思った。日本は本当に自動販売機大国なのだと。

 

 

賢すぎる日本の自動販売機

よく言われることだけど、日本は海外と比べて自動販売機の普及が進んでいる。治安が良く、人口密度が高いことがその成功の秘訣だと言われている。

 

その一方で、日本人のシャイな国民性も影響してるのでは?と僕は思う。

通勤途中の風景を見ればそれは一目瞭然だ。日本のキオスクでは、手練れの売店のおばちゃんが、小銭と引き換えにスポーツ新聞をシュリケンのように投げて寄越す。会話は介在しない。

だがイタリア人はバールに立ち寄っては、買ったコーヒーが冷めるくらいお喋りを続けるのだ。

 

シャイな日本人は自販機の普及と、進化をドンドン進めることとなった。

日本コカ・コーラはアプリで操作できる自販機(自販機を操作できるアプリ?)まで開発してしまった。

 

c.cocacola.co.jp

 

 数年前からよく見かけるようになった、「acure(アキュア)」という自動販売機も実に日本的だ。これまでモックアップを張り付けていた飲料サンプルを、液晶表示にすることで不要にした。

その上この自販機は顔認証機能を備えており、飲料を購入しようとする人の年齢・性別を識別して「最適な商品をオススメ」してくるのだ。

 

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実に日本的だ。クールで便利、ハイテクだが、ちょっとだけ「いらない」機能を付けてしまうあたりが。

 

ミスを許さない日本人。“出来過ぎ”を“当たり前”に

話は“なか卯”に戻る。

激昂して帰って行ったお父さんについて。

なか卯の券売機は、タッチパネル式の液晶画面を備えたハイテクな奴だ。普通なら、店員の助けなんか借りなくても、スッスとオーダーを済ませられる。

だけどその自販機が故障して、お父さんの一万円札を受け付けなくなった。

やはりこういう時、自販機大国の 国民は怒り出すのだ。

日々ハイテクに囲まれて暮らしているせいで、あらゆる機械が精密・精緻に動かなくては気が済まない。

新幹線が一分遅れると謝罪のアナウンスが流れ出す。

自動改札機にかざしたSUICAの反応が悪くてもイラッとしてしまう。

海外と比較して見れば驚異的な精度で動いている“出来過ぎた”システム。だがそれが日常となっているため、出来て“当たり前”になっている皮肉だろう。

 

マイアミに響いた19ドル90セント

話は変わるが、先日フロリダに行って来た。

燦々と降り注ぐ太陽、のんびりとしたビーチリゾートやキューバ料理の話はまた別の機会に譲るとして、忘れがたい思い出が一つある。

 

一週間ほどの旅行が終わりに近づいたある日のことだ。

財布に釣銭のコインがやたらと貯まっていた。海外の硬貨はパッと見で額面が分かりにくく、買い物の時に使うのを躊躇してしまうからだ。

このコインをどう消費したものか考えていた。小銭を積み重ねてスタバでコーヒーでも買えばいいのだろうが、何となく気恥ずかしい。

そんな時、出かけた先のショッピングモールでスナック菓子の自販機を見つけた。

そうか、自販機なら落ち着いて小銭だけで買い物ができる。

そう考えた私は、財布からコインを取り出して投入し始めた。

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自販機は25セントだけでなく10セントも受け付ける仕様だった。次々にコインを投入し、1ドル60セントほども入れたところで、コインが尽きた。

だが買おうと思ったポテトチップスには10セント足りない。

私は苛々して財布を探ったが、残りは5セント、1セント硬貨しか残っていなかった。

仕方なく、紙幣を入れようと財布を探ると、これまた運悪く20ドル札しかない。まあいいかとそれを突っ込んで、商品ボタンを押した。

 

チャリン、チャリン。

 

機械が動作し、ポテトチップスが棚から押し出されると同時に、釣銭が返却される音が響き渡った。それを耳にした瞬間、ハッとなった。

21ドル60セント投入して、お釣りは19ドル90セント。

日本の賢い自販機であれば、まず19ドル分の紙幣が返却され、続いてコインが戻ってくるはずだ。

だがしかし、耳を打つのはチャリン、チャリンという硬貨が落下する音だった。

これは、まずい。

アメリカのアホな自販機は全額、コインで返却するつもりだ。

財布の小銭を減らそうとしたはずが、圧倒的に増加させて何とする。これではまるで、こぶとり爺さんに出てくる悪い爺さんのようではないか。

慌てて自販機を止めようと、キャンセルボタン的なものを探す私を、さらなる驚愕の事態が襲った。

 

カチャーン、カチャーン。

 

釣銭を返却する音が変化したのだ。

コインが釣銭受けに落下する音が消え、自販機の内部でパーツが動作する音だけが鳴り響く。

これはつまり、自販機の内部に蓄積されていた釣銭が切れたことを意味する。

僕は唖然とした。この自販機は、釣銭が切れたにも関わらず返却動作を止めようとしないのだ。エラーになって止まったりしない。

カチャーン、カチャーン。

 

僕は自販機を叩き、揺さぶり、あらゆるボタンを押した。ちょっと待て、気は確かか?お前(自販機)は釣銭を返したりはしていない。そのカチャーンという音を止めろ。

やがて自販機は19ドル90セント分の返却音をきっちりと鳴らした上で、動作を止めた。

 「お釣り、返しましたやろ?」

そう言って、すっきりとした顔で笑っているように見えた。

私は悔しさに震えながら自販機から商品を取り出した。21ドルもするポテトチップスだ。ソルトビネガー味だったが、むしろ涙の味に思えた。

 

なか卯”で激昂して帰ったお父さんは、一万円札が使えなかったことに激昂して帰って行った。だがマイアミで自販機に20ドルを毟り取られた私からすれば、贅沢極まりない態度に思える。

提供されているサービスが少しくらい不具合を起こしているからと言って、それが怠慢や悪意の類でない限り、少しくらい多めに見る寛容さが必要ではないだろうか。

それが現代日本に心の豊かさと、情緒の潤いをもたらすと信じている。

 

さて、このブログをアップしようとしたが、どうやらスタバのWi-Fiの調子が悪いようだ。この件についてはきっちり店側に抗議してくるとしよう。

映画「クリード」と強いパンチを浴びる人生

ふと、思い立って「クリード」という映画を観て来た。

昨年末に公開された「ロッキー」シリーズの最新作だそうだ。

頭の中からロッキーのテーマ曲が離れない。
そんな出来事があって背中を押されたのだった。

※この記事は盛大なネタバレを含んでいる。読む前に今すぐ映画館に行き「クリード」を観ることをお勧めする※

wwws.warnerbros.co.jp

 

●地雷臭に満ちた「ロッキー」のスピンオフ映画

はじめて「クリード」について聞いた時、ちょっと思ったのだ。
「あれ?ロッキーって7年ぐらい前にシリーズ完結を宣言してなかったっけ?」

そう、還暦を迎えたロッキー・バルボアが、一夜限りの復帰戦に挑む名作「ロッキー・ザ・ファイナル」がシリーズの最終作だったはず。

僕だけじゃない。「クリード」の話を耳にしたあらゆる映画ファンは考えたはずだ。

「どうしたスタローン。終わったはずのシリーズをまた引っ張り出すとは、引退を撤回しまくる大仁田厚みたいじゃないか」と。

クリード」のあらすじは、かつてのライバルだったアポロ・クリードの息子をロッキーが鍛えるというもの。
今年70歳になるスタローンが、自分じゃもうアクションは無理だからアポロの思い出まで引っ張り出して映画を作ろうとしているのか?

これは何だかもう、地雷臭しかしない。

そう思ったのだが、どうやら実態は少し違うみたいだ。

この映画は厳密には「ロッキー」ではなかった。

 

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●スタローンの人生を反映させたのが「ロッキー」

「ロッキー」は、とある三流ボクサーが世界チャンプとの試合に挑むという物語だ。

シリーズは6作目まで作られて大ヒットしたが、1作目の「ロッキー」が生まれた背景にはドラマがある。

 当時、無名だったシルベスター・スタローンは、モハメド・アリと戦ったチャック・ウェプナーというボクサーの健闘に感動し、3日で「ロッキー」の脚本を書き上げる。その出来に関心した映画会社が脚本を高値で買い上げようとするが、スタローンは自分を主演とする条件を譲らず、結果的に「ロッキー」は低予算映画として制作される。

 ロッキーは三流ボクサーで、チンピラの手先になるようなダメ人間。すでに中年に差し掛かりつつあるが、人生の勝利とは程遠い場所にいる負け犬だった。

だがそんなロッキーがエイドリアンと出会い、愛する彼女のために世界チャンピオンのアポロ・クリードに立ち向かう。

試合前にロッキーはつぶやく。
「もしも試合が終わっても立っていられたなら、俺は自分がただのチンピラじゃないと証明できる気がする」

そしてロッキーはアポロと戦い、フルラウンドの死闘の末に判定負けとなる。

 

ボクサーが戦って、負ける物語。

端的に形容すればそれだけの話なのだが、映画を観た人は誰もロッキーが負けたなんて思わない。
試合終了の直後、ボコボコに殴られ、腫れあがった顔でロッキーは愛する人の姿を探す。そしてエイドリアンと抱き合い、映画は終わる。

試合には負けたけど、ロッキーは自分自身を証明し、愛を手にすることができた。
周囲からは馬鹿にされ、手も足も出ずに秒殺されると思われていたけど、ロッキーは最後まで諦めず、ダウンしても立ち上がったからだ。

 その姿は当時のシルベスター・スタローンとぴったり重なる。

負け続けの人生、だけど諦めずに、諦めずに前へと進むことで、いつか勝利を掴む。

 

 実際に「ロッキー」は大当たりし、無名の三流役者だったスタローンは一躍スターになった。

 

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●「クリード」の企画を持ち込んだ20代の映画監督

「ロッキー」シリーズは全てスタローンが脚本を手掛けている。だがこの「クリード」の脚本・監督を務めているのはライアン・クーグラーという新人映画監督だ。

彼はこの企画をスタローンに持ち込み、映画化を懇願したそうだ。

当初、スタローンは断った(本人によればノー、ノー、ノーと言ったらしい)。シリーズは6作目で綺麗に完結していたし、新たに映画を撮る理由が無かったからだ。
だが最終的には根負けし、映画への出演を承諾した。

この話そのものが、まるで「ロッキー」の再現だ。スタローンは若い無名の映画監督に、かつての自分と同じ情熱と執念を見たのだろう。

テンポの良い映像、不器用でリアリティのある恋愛ドラマ。ロッキーを下敷きにしつつも、より現代的な映画に仕上がっている(特にノーカットで繰り広げられる中盤の試合シーンは圧巻だ)。「クリード」は新たな若い才能によって、従来の「ロッキー」シリーズとは少し違った趣を打ち出した。

 

だが内包するテーマは同じだ。

主人公である若いボクサー、アドニス・クリードは父の名を背負って無敗のチャンピオンに立ち向かう。物語のラスト、フルラウンドの死闘の末、アドニスは惜しくも勝利を逃す。

この敗北こそが、「ロッキー」シリーズの本質だと思う。

「ロッキー」でもシリーズ最終作の「ロッキー・ザ・ファイナル」でも、主人公が試合に負けて物語が終わる。

だけど勝とうが、負けようが結果は関係ない。

立ち向かう者の美しさを讃える物語だからだ。

 

 

●人生で大切なのは勝利ではない

勝利だけが人生のゴールではない。

多くの人にとって、敗北こそが日常だ。
人生には大なり小なり、あらゆる形の敗北が立ち塞がっている。勝ち続けられる人間はいない。 

もしも奇跡的に無敗を貫けたとしても、人生の最期には死という敗北が待っている。
その終局から逃れられる人間はいない。
勝利だけが人生の価値だと考えていたなら、最期の瞬間、人生の旅立ちはひどく味気ないものになってしまうだろう。

6作目の「ロッキー・ザ・ファイナル」で、ロッキーが自分に反発する息子に語るシーンがある。

「人生で大切なのは、どれだけ強いパンチが打てるかじゃない。どれだけ強いパンチに耐えられるかだ」

ロッキーの物語の中で最重要なのは、勝利ではない。

勝つことが素晴らしく、負けることが無様だとされがちな現代で、こういう泥臭い美学を持つことも大切なのではないだろうか。

 「クリード」の中で、ロッキーがアドニスにシャドーボクシングを教えるシーンでのセリフがある。

「鏡の中にいる奴を見ろ。そいつは何度もお前に立ち向かってくる手強い相手だ。そいつに打ち勝て。ボクシングも、人生も同じだ」

多くの人にとって、敗北を運んでくるのは自分だったりする。 

そいつと向き合い、諦めずに立ち向かう勇気を持つこと。その大切さを教えてくれる映画なんだという気がする。

 

 

つい先日、ロッキーのテーマ曲を愛した人を見送った。

きっと、強いパンチを耐えながら過ごした人生だったのだろう。

くたびれ果てていたけど、いい顔で眠っていた。

映画「進撃の巨人」と観劇の初心〜巨人はウルトラマンだった〜

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 監督によるSNSでの発言が炎上していたりして、色々と話題になっている映画「進撃の巨人」を観てきた。

一応、原作は途中まで読んでたしアニメも見たけど、映画版に対しては予備知識が無く、シートに着座した時点で前後編の前編だということを知った。

 

なのでもちろん、キャストや設定が色々と変更になっていることも知らなかった。

 

リヴァイ兵長の代わりに、東京ガスのCMでウナギイヌと戯れていた長谷川博己さんが、「シキシマ」という謎のキャラになって「ムハハハ」と怪演していることにちょっと驚いた。 

ちなみに原作では「立体機動装置」というギミックを使って空を飛び、剣でうなじを切り落とすのが巨人を倒す唯一の手段として描かれているのだけど、映画では斧担いでる奴とか、弓を持ってる奴とか、「そもそも飛ぶ気ないでしょ?アンタ」みたいなキャラがちらほら出てくる。

中でも爆笑したのは怪力キャラが巨人を投げ飛ばすシーンで、もうそんなに強いんならエレンが巨人化せんでもええやないかと思ってみたり・・・・・・。

 

www.shingeki-seyo.com

 

 

■写実な実写に用は無いわけですよ

とまあ、原作との相違点は色々あって、オリジナルが大好きなファンたちはそこをバッシングしているみたいだ。
 
だがそもそも、原作を忠実に実写化することは(尺の意味からも)不可能だし、可能だったとしても、同じ内容を実写でなぞるだけなら作品として価値は無い。
 
少なくとも、原作に面白さで勝てる可能性は無くなるのだから。
 
だとしたら、実写化ならではの切り口で、原作とは違う魅力を出そうとするのは正しい姿勢だと思う。
まぁ、その結果、色んな作品実写化の度に映画ファンは少なくない落胆と失意と怒りにかられているのだけど、それも含めてチャレンジじゃないか?と思うようにしている。
 
立体機動を捨てて(?)斧や弓を持たせたのは、アクションが単調にならないようという配慮だろうし、主人公の戦う動機が「親の復讐」から「元カノの奪還」になったのも、限られた時間でのドラマを、主要キャスト(若手俳優)のみで完結させるための工夫かも知れない。
 
結果的に「どないやねん」と思うシーンもあったけど、そうした点も含めて、消費者もリスクを背負うのがエンタメなのではないだろうか(※ただし、金払ってるんだからと悪口は言わせてもらうんですけども)。
 
まぁ、失敗の無い娯楽が欲しければ、梶原一騎全集を買って一生エンドレスに読んでれば事足りるわけだし、多少はね・・・・・・。
 
 

■久々に正統派の怪獣映画を見たわけですよ

 で、結局のところ映画は面白かったの?という質問に対しては「面白かった!」と答えたい。

観に行く人は一回、原作は忘れた方がいいと思う。これは夏休み怪獣映画なのだから、原作との相違をあれこれ悩んで観ない方がいい。

壁の外から襲ってくる規格外の化け物と、蹂躙される人類。起死回生のための捨て身の作戦、馬鹿をやって死んでいく仲間たち。そして人類の側から立ち上る反撃の狼煙!

普通に観て、面白くないはずがないのだから。

映画を見るときには下手な予備知識を持たず、スクリーンから得る情報だけをシンプルに味わった方がいい。まさしく初心に返って映画を見る価値に気付いた一日だった。

 

ちなみに今回、4DXという座席が映像に合わせて振動するギミック付きのシネコンで観てきた。これは映画のシーンに併せて座席が揺れ、傾き、風や水飛沫が吹きつけてくるというものだ。

 

もしもご近所にこのギミックが配備された映画館があるのなら、ぜひ体験されることをオススメする。

巨人が壁を破壊するシーンでは盛大に座席が揺れ、そっと近づいてくるシーンでは頭上から唾液が滴り、ミカサが巨人に切りつけると血しぶきが顔にかかる。もうびっしょびしょになる。

想像以上に激しく揺れ、容赦なく水飛沫が噴射されるから、クライマックスの殺戮シーンではもう大騒ぎだ。もう何度途中で座席から飛び降りようかと思ったことか。

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■巨人の正体はウルトラマンだったのか・・・・・・

 で、前編を見終わったボクははたと気付いてしまった。
巨人化して暴れまわったエレンは、最終的に巨人のうなじから取り出された。ピエール瀧は「早く取り出さないと巨人と一体化してしまう」と警告した。
そうか、巨人とエレンとは要するにエヴァとエントリープラグ(シンジ君)なのだ。
となると、巨人の前にはエヴァがいて、その前にはウルトラマンがいた。日本の誇るクリエイターたちのイマジネーションが脈々と繋がっていることに感慨を抱いた。
 
そしてウルトラマンエヴァンゲリオン進撃の巨人と紡がれたこの流れを、3年前の“特撮展”で庵野監督と巨神兵を動かした樋口監督が受け止め、メガホンを取ったというのも何かの因縁で、さらに次には最新作のゴジラを撮るというのだから日本の特撮映画もエンタメもまだまだ終わっちゃいねえよ、馬鹿むしろまだ始まってねえよ、みたいなことを思った夏でした。

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アメリカでキャンピングカーをレンタル(4) ~キャンプサイトでのインフラ編~

過去記事はコチラから↓

アメリカでキャンピングカーをレンタル(1) ~借りるまで編~ - 風とビスコッティ

アメリカでキャンピングカーをレンタル(2) ~実際にキャンプする編~ - 風とビスコッティ

アメリカでキャンピングカーをレンタル(3) ~運転する編~ - 風とビスコッティ

 

 

少し前に、電気自動車が搭載した巨大バッテリーによってキャンプ場で電源を確保できることをCMにしていた。

電気自動車が実現する、ハイテクで快適なアウトドア生活”というわけだ。

だが、アメリカではそんなハイテクかつ繊細なソリューションは行わない。根っから大雑把な彼らはむしろ、キャンプ場にそのまんま電気や水道や無線Wi-Fiを引いてくる。キャンプ場にもコンセントがあり、家で過ごすのと同じようにテレビやネットが見られる、プレステで遊べる。そしてアイスが冷やせてピザがあっためられるのだ。

 

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モーターホームでキャンプ場に乗り付け、指定されたサイトに駐車すると、据え付けのテーブル・椅子に加えて、上図のようなものが目に入るだろう。

これこそが、モーターホームの車内を自宅にいるかのように快適にしてくれるインフラなのだ。中央の配電盤にコードをつなげば電気が供給され、地面から出ている給排水の口にホースをつなげば水道が使える。

ちなみに給水と排水の口とホースは別々だ。モーターホームでは移動中でも水道が使えるようになっているため、排水は自動的にタンクに貯められる。なので給水はホースをつないで随時行うが、排水に関しては都度「タンクの中身を下水に流す」という処置を行う。

ちなみシンクなどで洗い物などをした排水は「グレータンク」に貯められるが、トイレから出る排水は「ブラックタンク」に貯められる。排水のレベルで区別されているのだ。なのでそれぞれ排水処理を行う際のホースも種類が異なる。決して混同してはいけない。

 

↓↓↓↓↓↓写真はブラックタンクの中身を排出しているところ。色々と危ない。

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さて、こうしてサイトのインフラに接続している状態であれば、電気と水は無尽蔵に供給されるわけだが、実はモーターホームにはこれとは別にプロパンガスが搭載されていて、キッチンのコンロや冷蔵庫の冷却、停車時に使う暖房などに用いられている。このプロパンガスはすぐに切れるものではないが、キャンプ場のサイトでは供給されず、ガソリンスタンドなどで別途補給するしかないので注意して欲しい。

 

 

 

いずれにせよ、キャンプサイトに着きさえすれば後は快適なモーターホーム生活が待っている。

以前の記事にも書いたが、アメリカのキャンプ場はトイレ、シャワー、売店が完備されており、清潔で快適だ。たいては美しい緑に囲まれ、のんびりとするにはもってこいの場所にある。

 

↓↓↓↓↓↓↓写真はセドナの外れにあるキャンプ場。緑が多くて静かで、ドッグオーナーが多かった。

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↓↓↓↓↓↓トイレ&シャワー&ランドリーの小屋。狭いけど清潔

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ちなみに売店の写真を撮り忘れてしまったが、キャンプ場の売店では大抵のものが売っている。一例を挙げると下記のような感じ。

・食料品(加工食品、菓子、アルコール類などはもちろん、時として各種精肉など)

・燃料(薪やら炭やら着火剤やら)

・日用雑貨(洗剤から石鹸・シャンプーなどのコスメティックまで)

・土産物

 

さらにはモーニングコーヒーのサービスを振る舞うキャンプ場などもある。アメリカ人は無料のモーニングコーヒーが大好きだ。

ザイオンのキャンプ場に一泊した翌朝、マグカップを片手にウロウロと徘徊する老人の一団を見た。朝の散歩をしていた私を捕まえて「コーヒーはどこだ?」と問い詰めてくる。

それぞれ20万ドルはするであろう、豪華なモーターホームで乗り付けているセレブ老人のくせに。僕は「あっちじゃないですか?」とランドリールームの方を指さした。

そして老人たちがガヤガヤとその場を立ち去った隙に、売店の脇に置いてあるコーヒーポットにたどり着き、無料のコーヒーサービスを楽しんだ。

麦茶のように薄いコーヒーだった。

 

 

野良Wi-Fiと野良ネコと

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最近、山手線に乗ってスマホをいじっていると、特定の駅にさしかかった時、回線が重くなってネットが開かないことが多くなった。

電波が弱いのかと思ったが、実際はその逆だ。JR東日本が提供する「JR EAST FREE wifi」という無料のWi-Fiサービスがあり、そのアクセスポイントに近づくことでスマホWi-Fiに切り替わり、接続待ちになっているのだと思う。

 
この「JR EAST FREE wifi」というのは訪日外国人向けの公共Wi-Fiで、メールアドレスを登録するだけで3時間まで無料できるらしい。対象は日本を訪れる外国人観光客だ。
 
 
●年間1300万人の訪日観光客に向けて 
少子高齢化内需拡大に期待できない日本にとって、年間2兆円もの消費をもたらす1300万人の訪日観光客は貴重な存在だ。観光庁は盛大な予算を組んで、観光客の誘致に躍起になっている。
そうした観光客たちに、快適に日本で過ごしていただくためにも、通信環境の提供は欠かせないものだろう。
 
 
私も昨年、ヨーロッパを旅行中にモバイルWi-Fiが壊れてしまい、ロンドンの街中で無料のWi-Fiスポットを探し回った記憶がある。一部のカフェやレストランでは無料のWi-Fiを提供していたが、1時間などの時間制限もあってなかなか不便だった。
数ポンドで何時間か使えるというバージンメディアWi-Fiというサービスも使ってみたが、地下鉄の駅構内でしか繋がらないため、停車している僅かな時間で調べ物をするという有様だ。
 
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ホテルでも、Wi-Fi事情には悩まされた。Wi-Fi無料をうたっているホテルは多いが、中規模以下の安いホテルの場合、全室繋がる方が稀だ。ソウルズベリーの安ホテルでは客室を出た廊下にしかWi-Fiが飛んでおらず、宿泊客たちがパジャマ姿で廊下に出てきてメールを送ったり、データをダウンロードしていた。
 
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イタリアでも事情は同じだった。あれほどパスタのコシにこだわる国民が、ネット回線はブツブツと途切れることを容認するのは本当に謎だ。
 それに比べるとJR EAST FREE wifiはだいぶ優良なサービスにも思える。
 
 
 
●街に飛び交う野良Wi-Fi
 JR EAST FREE wifiに限らず、今後も無料のアクセススポットは増えていくだろう。利用者の利便性のため、コンビニやショッピングモールもサービスを拡充している。
問題は、アクセススポットが溢れかえり、誰もがその辺で飛んでいる無線を拾うような習慣になってきた時に、犯罪者に悪用されないかということだ。有名企業と酷似したURLで人を騙すフィッシング詐欺のように、偽装したアクセスポイントで利用者のデータを抜き取る悪質な野良Wi-Fiが出てくるのではないだろうか。
 
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さてここまで書いてきて、本稿があまり野良Wi-Fiと野良ネコの話に触れていないことにお気づきになった方は多いと思う。実際、このエントリは私が世界各地で出会った野良猫の写真が貼りたいがためだけに立てられたものだ。
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 私は本来、生粋の犬派であるし、岩合光照さんのように世界猫歩きをしているわけでもない。だがせっかく撮りためた野良猫の写真の一部を皆様に公開するため、エントリを立ててみてもいいかなと思った次第。
 
オチは無い。相変わらず。

いきなり!ステーキと、切り損ねた肉と。

立ち食いスタイルでステーキを安く提供し話題になった『いきなりステーキ』に行ってみた。

 
東京を中心に急速に店舗数を増やしているステーキチェーン店だ。
立ち食いで食べさせるのと、肉をグラム単位で計り売りするのが特長である。
例えばリブロースだと1グラムが5.5円。300グラムのボリュームでも1650円で食べられることになる。
肉質は箸で切れるほど柔らかい霜降りってことはないが、十分に柔らかく、筋もそこまで気にならないレベル。この値段であれば納得のクオリティだ。
 
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一つ気になったのは、肉の量り売りシステムだ。
調理場の近くのカウンターで係の人に申し出ると、その場で巨大な肉の塊をズバッと切り落とし、好きな分量を取り分けてくれる。だけど、僕が行った時は係の人が不慣れだったのか、僕の指定した300gに不足して、肉を何度も何度も切りなおしていた。
オーダーは最低300gからなので、あの肉たちは売ることができない。どうするんだろうか。まかない?廃棄?まさか・・・・・・。
 
このお店の今後の課題は明らかに肉のカットについてだろう。
まぁとにかく、肉を“いきなり”切るのは止めた方がいい、という話だ。