風とビスコッティ

第3回ゴールデンエレファント賞受賞「クイックドロウ」作者です。ある日ブログのタイトルを思いついたので、始めることにしました。できれば世の役に立つ内容を書き記していきたいと思っています。

2020年米国大統領選挙と、記憶と記録

先日の沖縄出張でGotoキャンペーンの地域クーポンをもらいそびれたことを、突然思い出した。

米国大統領選挙の投票最終日が明日に迫ったからだ。

何の話だ、となるだろうが、これにはわけがある。出張先で乗ったタクシーの運転手さんとトランプ再選の可能性について激論を交わし、その後で地域クーポンの話になり、そこで初めて自分がそれを貰いそびれたことに気づいたからだ。

大統領選の話になるたび、そのことを思い出して歯噛みする。

 

さてしかし、本稿の主題は地域クーポンではなく、アメリカ大統領選挙の方だ。

下馬票ではトランプ劣勢と伝えるメディアが多いようだが、実際のところはよく分からない。というのも、4年前もメディアはトランプをこき下ろし、ヒラリーが初の女性大統領になるだろうと予測していたからだ。

この時の番狂わせについては、我が兄がメディア(知識層)の見誤りについて書いていたのでそちらを貼っておく。

トランプとバイデンの大統領選挙は、バイデン優位と報道されがちですが、以前のクリントンのように結局はトランプ勝利となるのでしょうか?に対するKenn Ejimaさんの回答 - Quora

 

だがいずれにせよ、前回はトランプの勝利となった。

これには多くの人が驚かされたし、僕も同じだった。理性的に判断すれば、鼻につくところはあったとしても、ヒラリーさんの方が「まともな人」に見えたからだ。トランプさんはジャイアンの悪いとこだけを集めたような人物で、例え大長編の時でも全然助けてくれない感じがした。

そんなトランプさんがなぜ、世界の覇権国家たるアメリカのトップに選ばれたのだろうか。

色んな分析があると思う。

結果的に彼の政権下で経済は活性したし、アメリカとしての強さを取り戻したようにも見える。そういう意味では、この時期の米国のリーダーとして必要な資質を持っていたのかも知れない。この辺りの分析は複雑に色んな要素が絡み合うから、現時点で僕には何とも言えない。

 

だが先日、ある人がトランプさんの強みを「問題をシンプルに言い換え、大衆に繰り返し訴えること」と評したのを聞いて、何となく合点がいった気がした。

現代は政治も経済も複雑に入り組んでいて、正しく伝えようとすれば情報量は膨れ上がり、聞いている方は論点を見失う。

結果「小難しいことを言って民衆を煙に巻こうとしてる」ように見える。

だからこそ時には、例え進次郎構文になったとしても、わかりやすく伝える必要が政治家にはあって、だからこそ、わかりやすく伝える必要があるのですよ。

 

そう言う意味ではトランプさんは無敵に近く、中学生みたいなわかりやすい英語を連呼して、プロレスのマイクパフォーマンスみたいに相手をこき下ろす。テンポよく、感情を込め、俺様がナンバーワンだと宣言する。

そして同じ言葉を繰り返す。

伝わってくるのは、情報というより感情や思いだ。これは意外と強い。情報は処理しないといけないが、感情はぼうっと聞いていても印象に残るからだ。

そしてトランプさんは都合が悪くなれば簡単に前言を翻す。前言を覚えている人からすれば「頭がおかしい」か「病的な嘘つき」ということになるのだろうが、大統領の発言力で連呼することで、ファクトチェックの網を掻い潜って大衆に強い印象を残す。

デジタル化が進み、あらゆる事象がデータで記録されているから、政治家の発言を遡って調べることは比較的容易になった。 

しかし、人間の脳の容量は有限で、無尽蔵に増え続ける記録を全てインデックスしてはいない。そして人の記憶は実に曖昧だ。簡単に忘却され、目の前の印象によって捻じ曲げられる。

だからトランプさんが「自分に都合のいいこと」だけを連呼した結果、ある程度の割合で大衆にそれが事実みたいな「印象」を与えているのだろう。

 

ただそれは、単にトランプさんがズルい、みたいな話ではない。

どちらかと言うと、人間とはいかに曖昧で不合理な生き物か、という話だ。

 

思えばこの春にも、そんなことを思う出来事があった。

 

 

◾️パンデミックと向き合う 

「日本での感染拡大を防ぐための水際対策として、空港でサーモグラフィーカメラによる検温を実施。しかし潜伏期間中の感染者はスルーされるため効果は限定的」

 「感染予防のためマスクが奨励されたが、実はウィルスを防ぐ機能は限定的であることが知られていなかった」

こうした報道を、各種メディアが流したのはいつ頃かお分かりだろうか?

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https://www.cas.go.jp/jp/influenza

内閣官房「過去のパンデミックレビュー」より引用

 

↑↑↑↑ 

これ実は、新型コロナウィルスに関してではなく、11年前の新型インフルエンザの流行時の新聞記事だ。僕も当時、立派な社会人だったわけだが、こんな報道がされていたことなどすっかり忘れ去っていた。

そして11年後の今「マスクの予防効果」だとか「水際対策の効果は限定的」だとか、以前と同じ議論を繰り返している。

そのことを煽りではなく、本当に不思議に思う。僕たちはアホなのかと。

だがこれこそが、人間が印象に左右される生き物だという証左だと思う。

記録にははっきり残されているのだ。内閣官房が丁寧にパンデミックの歴史を誰にでも閲覧できるWEBサイトにまとめてくれている。だが人の記憶は曖昧で移ろいやすく、まるで今初めて感染症を見たかのように狼狽している。

そして我々はこれからも同じように、社会が経験した様々な出来事をさっぱり忘れて同じ過ちを繰り返すのだろうか。

 

人類はこれまでも無数の記録を残してきた。神話に、石板に、パピルスに、無数の歴史書に。そして今や世界中で5万9千エクサバイトものデジタルデータが流通しているという。

だが人の記憶は曖昧だ。かつて胸に刻んだ大きな痛みも、日常の些事や印象に左右されやがて薄れていく。

もし人間が遺伝子というデータを未来へ紡いでいくためのストレージなのだと考えたら、本当に精度が低いと言わざるを得ない。情報のインデックスは感情に左右され、そもそも一定に記録されることさえない。

そして最終的には印象に頼って判断をする。

こうして僕たちはきっと、どこかで同じ過ちを繰り返す。

これは何なんだろうと考えることがある。神様はどんな意図で人間をデザインしたのだろうかと。

 

今度の大統領選で、また下馬評をひっくり返してトランプさんが再選したら、僕はこのことについて確信するのだろう。人間は記録された真実よりも、自分が信じたい何かに踊らされるのだと。

 

だが思えば、他の側面もある。

沖縄で地域クーポンをもらいそびれた僕だが、飛行機が1便遅れたことで、オリオンビール沖縄そばを堪能することができた。ほろ酔いで機上の人となった僕は悔しさを忘れ、満ち足りて家路についたのだ。

人は忘却の生き物である。

クーポンを貰えなかった事実は消えないが、僕の沖縄出張は悪くない印象で結ばれることになった。愚かなのかも知れないが、人が逞しく生きるため、それは必要なのかも知れない。

 

ただ、今月また次の出張が控えている。今度こそクーポンを忘れないため、僕はこのエントリーに記録しておくことにする。

どっと笑い。

 

大坂なおみと誰かのための配慮の話

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大坂なおみ全豪オープンで優勝し、アジア人初の世界ランキング一位になった昨夜の事。
テレビやネット、友人のSNS上はその話題で持ち切りで、うちの父親までもがなぜかメールを送ってよこした。

だからこれは凄いことなんだと思いつつ、テレビに流れる二十一歳の女王のスピーチを聞いていた。

相変わらず人前で話すことに慣れていない、野暮ったさと可愛らしさの入り混じった口調。話してる最中で、手にしているトロフィーを置かなきゃとマイクの前を離れる天然っぽい仕草。
日本人はこういうのを“可愛い”と言って喜ぶ。
浅田真央ちゃんに人気があったのも、そういう面が評価されてたんだと思う。

でも、世界ではどうなんだろう。
そんなことを考えながらニュースを見ていたら、色んなことが気になってきた。

なんだか差別的な話になったら嫌なのだが、でも気になったのでこのブログを書く。

 

 

大坂なおみは何者なのか


テレビで見かけはじめの頃の大阪なおみは、正直ちょっと異質な存在だった。

百八十センチの恵まれた体格に、黒い肌。縮れた髪の毛をしていて、日本語をほとんどしゃべれない。はっきり言って、日本人に見えない。
でも名前は「大坂なおみ」。
正直、最初にその名前を聞いた時は“なんでやねん”と思った。
帰化した外国人に日本名を名乗らせてるのかとさえ考えた。
サッカーや相撲界など、日本のスポーツ界ではよく見かける光景だからだ。

でも実際はハイチ系アメリカの父親と日本人の母親の間に、大阪で生まれたという(大阪で生まれた大坂なおみ!)。やがてアメリカに移住するも、日米の二重国籍を持ちつつ、日本のテニス協会に所属。

そう言われて見ると、目鼻立ちにアジア系の特徴が混じっているような気がするし、日本語での受け答えも何だかシャイな日本の女子っぽいぞ。へぇ、カツカレーなんかが好きなんだ。
そんな風に彼女を見る目が変わっていった。

特に印象的だったのは、2018年に全米オープンでセリーナ・ウィリアムスを破って優勝した時のスピーチだ。
決勝のジャッジがセリーナに対して悪意があるんじゃないかと、会場にはブーイングが吹き荒れて雰囲気は最悪だった。そんな中、大坂なおみはマイクを向けられてこう言った。
「みんなセリーナを応援してたのを知ってるから、こんな終わり方ですいません。とにかく、試合を見てくれてありがとうございます」
その瞬間、ブーイングが大坂なおみへの歓声に変わったのだ。

自分は全然悪くないはずなのに、対戦相手への敬意も含めて謝罪した。
何だか凄く“日本人っぽい”と感じた。

そして日本のメディアもまた、そうした彼女のキャラクターを“日本人に特有の謙虚さだ”と報道するようになったと思う。

でもね。
世界の人は彼女を“何人”だと思っているのだろうか?と思う。

世界で流れているのは彼女の英語のスピーチで、たどたどしい日本語の受け答えは流されていない気がする。そして彼女の活躍は、父親の出身国であるハイチでも大々的に報じられているとか。


僕は日系ブラジルン人のカルロス・トシキの話を思い出した。来日当初、見た目が完全に日本人であるにも関わらず日本語が全然喋れない彼は、新幹線のホームでヤクザに絡まれた時「日本語ワカリマセーン」と答えてさらに逆上させたという。

島国ニッポンでは“日本人”と“それ以外(ガイジン)”をはっきり分けて考える傾向が強いと思う。
複雑なルーツを持つ彼女を果たして日本人と呼んでいいのか? という論調は以前からある。

僕たちは大活躍する彼女に“日本人”であることを期待しているが、実際のところ、彼女は何者なんだろうか。

 

 


■ホワイトウォッシュの話


話は変わるが、日清カップヌードルのCMで描かれたアニメ絵の彼女が、白すぎるといって問題視され、放送中止になったと言う。
問題のCMに関しては炎上する前、テレビで二、三回目にした記憶がある。その時は白いとか黒いとか気にならなかったが……炎上後に改めて画像を見比べたのだが、まぁ確かに白いよね。

でも、それがどうした?と思うレベルだ。“ちびまる子ちゃん”や“ドラえもん”の特番に出てくる芸能人(西城秀樹とか、衣装がなければ誰だかわからない)とかに比べれば圧倒的に再現力は高いと思う。数秒しか映らないCMだが、一目で大坂なおみだとわかる。

でも、問題なのは肌の白さなのだ。黒い肌を白くすることは差別につながると言う。
ちなみに白い肌を黒くするのも。
2017年にダウンタウンの浜ちゃんがエディ・マーフィーの仮装のつもりで顔を黒く塗ったら“ブラック・フェイスだ!”と叩かれた。

全ては黒人やマイノリティに対する差別問題に端を発している。

白人は美しく、黒人(やマイノリティ)は醜い、という価値観は未だにあちこちに根強い。オスカーにノミネートされた俳優が全て白人だったため「#OscarsSoWhite(オスカー白過ぎ~)」というハッシュタグが話題になったのは、80年代の話じゃない。何と2015年のこと。
原作では非白人だったキャラクターを白人が演じることが“ホワイトウォッシュ”と叩かれるものの、未だに多くの作品で起きている。

そうした抑圧に対してマイノリティが声を上げ、差別に抗おうとした結果……窮屈になったこともいっぱいあるよね。
そう、ポリコレだ、ポリコレ。

行き過ぎた配慮の結果、映画のキャスティングを白人だけで固めるのは“差別だ!”となった。その結果、いびつな形で有色人種を配役したり、歴史物でも史実に反するストーリーになったり……。

全ては“誰かに対する配慮”のためだ。

この話を突き詰めていくと、もう少しきわどい話になるのだけど、今回は大坂なおみ選手の話なのでこの辺りで留める。

 

結論として言いたいことは、“誰かに対する配慮”のために停止された日清のCM。あれを見た大坂なおみ本人には、肌は何色に見えたのだろうか、ということだ。

 

 

■彼女の謙虚さが示す物


ここ数年、テレビで日本を自画自賛する番組が溢れ返り、ネット上ではネタにされている。

残念ながら、日本が衰えてきた証拠だ。
まぁ仕方ない。人口が減少し、高齢化が進んでいるのは現実だ。我々は世界に先駆けて高齢者が大多数を占めるお年寄り国家になろうとしている。年寄りは次に生み出すものよりも、過去の栄光にすがってしまうものだから。

もう少しして、大人としての分別を取り戻し、今一度未来に目を向けられるとよいのだけど。

いずれにせよ、お年寄りである日本は世界からどう見られているかが気になって仕方がない。日本の誇りと感じられるものには嬉しくなってしまう。
だから大坂なおみも“日本の宝”として持ち上げている。

大坂なおみって、あの謙虚さが日本人っぽいよね」
とか
「日本特有の美徳である“謙虚さ”を大坂なおみが世界に伝えてくれた」
とか。
そのうち大坂なおみは胸に“Ken-kyo”と書かれたTシャツを着てテレビに出ればいいと思う。

でもね。
“謙虚さ”は別に日本だけの美徳ではないのだそうだ。
よく考えればわかりそうなものだが、激しく自己主張して自分の非を認めようとしない驕り高ぶった人間なんて、洋の東西を問わず受け入れられるはずがない。
例えばキリスト教にも“humility(謙虚)”という美徳がある。そしてその逆である“高慢”は7つの大罪入りを果たしているのだ。

じゃあ、よく海外に出た日本人の“謙虚さ”が問題になるのはなぜなのか。
海外赴任した日本のビジネスマンが“出来ること”を“出来ない”と言って現地の人を混乱させたり、自分の家族をわざとを卑下して不快に思われたり。
厚切りベーコンが「Why?JapanesePeople??」となってしまうこの現象は何なんだろう。
謙虚さ、という概念が日本人にしかないからではないのか?

僕は違うと思う。
これは謙虚さというより単に「互いをよく知らない相手に、無暗にへりくだってしまうこと」で生じるすれ違いなんじゃないか。

大坂なおみ全米オープンの優勝スピーチで謝ったけど、会場の人たちは彼女が謝る必要なんかないと理解していた。でもセリーナへの敬意とファンへの感謝を示すため、彼女は一歩譲ったのだ。
一歩譲ったのだということを、会場の人たちは理解していたから受け入れた。

でも互いにどういう能力、立場なのか分からない状況で闇雲に謙遜されると、相手から見て「この日本人は何歩譲ってるのか?」わからなくなるのではないだろうか。
だから「Why?JapanesePeople??」ってなるんだろうと思う。

 

 

で、何が言いたいかと言うと。

日本のメディアが大坂なおみを日本の宝だと持ち上げ、何となく日本を背負わせようとしてるけど、世界の人々は彼女を日本人だと思っているのだろうか。

そして彼女自身は、自分を何人だと思っているのだろうか。
CMで肌を白くされたことが“ホワイトウォッシュだ!黒人差別だ!”と炎上したことに、どう思っているのだろうか。

本人はアニメや漫画が、和食が好きで、羽生結弦の演技に感動したとTwitterに上げたりもした。ビヨンセや、最近売り出し中の黒人俳優マイケル・B・ジョーダンのファンでもある(Wikipedia)。
彼女のバックグラウンドを考えれば、自然とそういうカルチャーに親しむよね、というもののミックス。

全米オープンの後での日本のインタビューで、彼女の複雑なルーツについて質問した記者がいた。その時大坂なおみはちょっと困ったような顔で
「自分のアイデンティティについては深く考えてません。私は私なので」
と答えたのが印象に残った。

まぁ、そうなんだろうと思う。
今この時代、いずれかの共同体に100パーセント帰属しろって方が無理があるのだ。

情報技術の発展によって世界は急速に狭くなり、そして複雑に入り混じった。
自分自身のことを考えてみても「自分は●●だ」と言い切るラベルのいかに多いことか
世界市民だが日本国民でもあり、西側諸国の一員のようでもありつつ、右か左か関東もんか関西人か、ノンケかゲイか、キノコの山かタケノコの里か……。
そして我々は、一人一人が複雑な属性を併せ持っているくせに、いや併せ持っているからこそ、旗色を鮮明にして自分たちの陣営を侵害するものを批判する。

そうして“誰かのための配慮”を求め、互いを束縛し合って世界は窮屈になっていく。
CMの肌の色に文句をつけられるのは、本来なら大坂なおみ本人だけなのに。


大坂なおみは何者か? と書いたが、何者であってもいいじゃないかと思う。
彼女は日本人であり、アメリカ人であり、ハイチの人からみても縁ある人であり、テニス界に取っては颯爽と現れた若きスーパースターなのだろう。

そして何より「私は私」なのだから。

これからも彼女は活躍し、メディアで姿を見かけることは増えるだろう。
その度に日本のメディアは彼女を日本の宝扱いし、僕はまぁ、悪い気はしないだろうけど、ちょっとだけ複雑な気分でそれを見守るのかも知れない。


おっと、今回は特にオチが無い。

林先生の語るやりたい仕事とお好み焼きと四象限マトリクスと

大阪人はお好み焼きを四角く切り分けるのに対し、東京人はピザのように放射状に切り分けようとする。だから喧嘩になる、みたいな記事を読んだ。

僕は四国生まれなので文化圏的には大阪人に近いはずだが、正直どちらもピンと来なかった。
だってお好み焼きって、せいぜい直径十五センチくらいに焼きません?そんなに細かく切り分けたりするっけ?
僕は普通、まず十文字に切り分けて、それを箸かコテで食べることにしてる。

そういう意味では、四角に切り分けているとも言えるし、放射状に切り分けているとも言えるのかも知れない。

そうやって頭の中でお好み焼きを切り分けた時、ふとあることを思い出した。
自分の身の回りで、何でもそうやって十字に切り分ける人たちの話だ。

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■賢しさ自慢の、四象限。

四象限のマトリクスに分ける、という思考の整理法がある。

例えば友達同士で飲みに行く際、どの店に行くか議論になった場合、「高い←→安い」「美味い←→まずい」の軸で分類するみたいなやり方だ。
(もちろん、実際に飲食店の選別に四象限を持ち出す奴とは飲みに行かない方がいい)

例えばマーケティングに関する下図のようなマップは有名で、目にしたことも多いと思う。

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※ボストン・コンサルティンググループというコンサルティング会社が提唱したもの。ボスコンのPPMとか言えばそれっぽく聞こえる。

 

こうやって四象限に区切るテクニックは、コンサル、あるいは自分をコンサルっぽく見せようとしてる人物がビジネスの場で多用するテクニックだ。
議論が白熱し、様々な意見が飛び交い始めると、その場を仕切りたいと思っていたコンサル、もしくは自分をコンサルっぽく見せたい人物が颯爽と立ち上がり、ホワイトボードに向かう。

「ちょっと待ってください、●●が重要なことを言いましたよ。みなさん、これを見てください」
とか何とか言いながら注目を集め、何か考えている振りをしながら力強く十字を描く。

この時に重要なのは、決して丁寧に真っ直ぐな線は描かないことだ。勢いよく、少し乱雑なくらいが適切だ。
あたかもその場に垂れ込めた重々しい難題を切り裂くかの如く。

で、その場に転がった意見を適当にマッピングして、それっぽい意見を述べて月末にはクライアントの目玉が飛び出るような請求書を送りつける、と。

僕は仕事の場で、誰かがこの十字を切る様を何度も、何度も、何度も見てきた。
そのたびに心の中で「おー切ってる切ってる」と思いつつ、右利きの人が力強く十字を切るとカタカナの“ナ”に近くなるんだなとか考えたりしていた。

そしてこの年始、日本全国のお茶の間に送られた盛大な十字の話をしたい。

 


■やりたいこと、できること。仕事の見つけ方。

その十字を切ったのは、日本を代表する教育者タレントの林修先生だ。

テレビ番組「初耳学」の特番、林先生が高学歴ニートに授業をするというコーナーだった。非常に反響があり、ネット上でも色んな感想や意見が上がっていたようだ。

番組の中で林先生は「やりたい仕事がないから働かない」という高学歴ニートに対して十字を切った。

おもむろに黒板へ向かうと、「できる←→できない」「やりたい←→やりくない」の四象限マトリクスを繰り出したのだ。

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ちなみに、この話は実によかった。

林先生はまず、四象限の第一区分(やりたくて、できる)の仕事ができればベストだと伝えた。
そしてそれが駄目な場合に
・第二区分(やりたくないけど、できる)
・第四区分(やりたいけど、できない)
のどちらを選ぶかの説明を始めた。結論は、少なくとも林先生自身は第二区分を選んだ、というものだ。

それはなぜかと言うと、
・「やりたいこと」は、絶対ではなく状況や外部からの情報によって変化する可能性がある
・その一方で「できること」はそう簡単には変わらない
・だとしたら、「やりたいこと」を絶対の指針としない方がいい
という説明だった。

まぁ、異論もあると思うが理にかなった説明だと思った。特に二十代くらいのうちは「やりたいこと」の振れ幅も大きい可能性があるので、この説明は納得感が高いと思う。

僕も番組を見ながら、高学歴ニートの主張に対して自分ならどう答えるか考えていたのだが、林先生の説明に深く頷いていた。別にファンでも何でもないのだが、林先生がこれだけお茶の間の支持を得ている理由を垣間見た気がした。

まぁ、それ以外の受け答えはちょっとサイコパスっぽかったけどね。

 


■……ところで、第三区分はどうなった?

で、ちょっと気になったのが林先生の講義の中でも触れられることのなかった第三区分(できないし、やりたくもない)のことだ。

「いやいや、そこは選択肢には入りようがないから“そもそも選ばない”という確認ができればそれでいいんじゃない?」
という声が聞こえてきそうだ。

それはその通りなのだ。
特に「初耳学」の場合はニートがどんな仕事を選ぶか、というお題だからそこは切り捨てればいい。

だが他のお題の場合、例えば企業が売り出している製品群を何とかしよう、みたいな議論の場ではそんな乱暴な結論は出せない。

ここでもう一度、ボストン・コンサルティンググループのPPMに目をやって欲しい。第三区分の名称は何と“負け犬”だ。こんなところに分布された状態で看過するわけにはいかないはずだ。

だが実際、議論の場ではここは無視されることが多い。

何故か?
話が盛り上がらないからだ。


ここでもう一つ、組織論に関する有名な四つの区分について話したいと思う。

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※ドイツの軍人ハンス・フォン・ゼークトが唱えたと説明されがちだが実際は違うという説もある図

この区分が出てくる時、強調されるのは第四区分の『無能な働き者の危険性』についてだ。

第一区分が有用なのはもちろんだが、二と三も使い方によっては役に立つ、しかし第四区分は無能なせいで間違いに気付かず進んで実行しようと足を引っ張る、という理屈だ。

初めて聞いた時はなるほどな、と思った。
だがよくよく考えると、第三区分もそこそこ問題じゃねえの?と思ってしまう。消去法でいけばその役割を割り振るしかないのは理解できるが、本質的な問題が解決しているわけではない。だけど、第四区分に関する危険性に気付いて感心する一方で、第三区分については無視されがちになる。

なぜなら、この区分に関する話は大抵盛り上がらないからだ。


四象限マトリクスで議論を開始すると、話は第一区分からスタートすることが多い。問題の無いエースや、売れ行き好調なプロダクトについての話は楽しいからだ。

そして議論はすんなり終わり、視点は第二区分もしくは第四区分へと向かう。

どちらも何がしか課題を抱えているが、それをコントロールできればしっかりリターンが得られる可能性がある。
市場成長率が凄く高いが、まだ認知を得られていない新製品をどうやって知らしめるか。
安定して売れているが、成長は頭打ちの製品にどうテコ入れ、もしくは維持するか。

それらについて議論していると、状況が上向く可能性が感じられて話は盛り上がる。
多くの場合「今回の議論では発見があった」とされるのはこの領域だと思う。参加者は自分たちがトロイアを発見したシュリーマンになったような気分になり高揚する。

だけど、負け犬(第三区分)は?

そもそも話していて楽しくないし、頑張ってテコ入れしても第二区分、第四区分ほどのリターンが得られない可能性がある。サラリーマン社会で言えば“わかりやすい手柄”につながらない可能性があるのだ。
その結果、議論の順番としては最後になりがちだ。みんな疲れてるし、そろそろミーティングを切り上げて飲みに行きたい。

だから話が盛り上がらず、議論が深まらない。
「あの件は長期的な課題だ、だから今回はそっとしておこう」
と蓋を閉じてしまう。
人間は脳内の報酬系が発動しない出来事に関しては、距離を置いてしまいがちなものだから。


でも状況によっては、負け犬こそ真っ先に何とかしないといけない時もあるけどね。

 


■残されたピース

で、話はお好み焼きに戻る。
年末、仕事仲間とお好み焼きを食べに行き、豚玉とネギ玉の二枚を焼いた。前述の通り十字に切り分け、はむはむと食べ進めた。

しばらくして、鉄板の上に取り残された最後の一枚に気付いた。
話が盛り上がり、酒が進む中で皆から忘れられたのだ。
じりじりと鉄板に熱せられ、ジューシーさを失って固くなっていく。

誰かがこいつに向き合わなくてはいけない。

そう思った僕はコテを使ってその一枚を鉄板から救い出し、
その場で一番若いメンバーの皿の上に置いた。

AI に敗北する人類と思いがけぬワインの味と

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数年前にヨーロッパを旅した時のことだ。

しばらくイギリスに滞在した後、LCCでイタリアに飛んだ。国境を越えるのは拍子抜けするほど簡単だったが、到着して自分がイタリア語を話せないことに気づいた。会話が通じないというのは本当に不便だ。

かろうじて“ボナセーラ”と“ビアンコ”、“ロッソ”という単語は思い出せた。おかげでバーカロ(居酒屋)でワインを注文することだけはできた。

 

■AIは人間を超えるのか? 

話は変わるが先日「AI  vs 教科書の読めない子供たち」を読んだ。

AI による東大合格を目指す「東ロボ君プロジェクト」の研究者の著書で、非常に面白かった。本の前半で「現在のAI技術」についての説明があり、今のままではAIが人間を超えることはないと断言されている。AIとは要するに「計算機」であり、意味を理解しているわけではない。与えられた計算以上のことはできない、という説明だった。

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

AI vs. 教科書が読めない子どもたち

 

Siriの例がわかりやすかった。

「Siri、この近所にある美味しいイタリアンのお店を教えて」

と聞けば、Siriは最寄りのイタリアンレストランを検索し表示する。

ただし、これはSiriが言葉の意味を理解しているわけではない。「音声に●●なフレーズが含まれる場合は、●●という検索をして返す」というプログラム処理をしているだけだという。

この場合は「近所」「イタリアン」「お店」「探して」というフレーズに反応したのだろう。そういうフレーズが含まれる場合は、質問者がイタリアンのお店を探している可能性が高い、という判断だ。意味は理解していないが、確率的に質問者の期待に近い答えを「当てよう」としてるわけだ。

試しにと思って、

「Siri、明日は僕の息子の誕生日なんだけど、ご機嫌なパーティを開きたいからこの近所にある美味しいイタリアンのお店をできるかぎりの猛スピードで教えて」

と質問してみたのだが、同じようなリストが表示された。

Siriは「僕の息子の好み」も「ご機嫌なパーティの要件」も無視したのだ。まぁそれでも、イタリアンのお店を探すには十分な情報が提供された。なるべく期待に近い答えを当てようとしているのだとしたら、そこそこの成果だ。

それによく考えたら僕に息子はいないし、ご機嫌なパーティの予定もないのだった。

 

 ■統計と確率で正解を「当てにいく」計算機たち 

著書の中に書かれていたわけではないが、知り合いのエンジニアから似たような話を聞いた。人間のチャンピオンを打ち破り、一躍有名になった人工知能の“アルファ碁”もまた「意味を理解している」わけではないらしい。

アルファ碁がやっていることは、盤面を画像解析した上で「過去データを分析すると、こういう石の配置の場合、次はこの辺りに置くと良い」という統計的な最適解を算出しているだけだと言う。それはつまり、膨大な過去データをコンピュータが計算しているだけの力業であり「何手先を読む」とかは関係ないわけだ。

 

所詮は計算機。人間様には根本的なところで及ぶまい、となるわけだが、ここで「AI  vs 教科書の読めない子供たち」の話にもどろう。

この本の後半では、現代の中高生たちの「読解力」の不足について指摘している。

著書は東ロボくんプロジェクトとは別に、全国の中高生を対象とした「テスト問題の読解力」調査を行っているのだが、その中で次のような問題を出題しておかしな現象にぶち当たった。

 

■問題

Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称だが、男性の名Alexanderの愛称でもある。

この場合、次の(     )に入る答えを選択せよ。

・Alexandraの愛称は(  )である

①男性 ②Alex ③Alexander ④女性

 

さて、答えはもちろん②である。だが子どもたちの実に40%が④と答えているのである。いったいなぜだろうと悩んだ著者は「誤答した子供は“愛称”の意味が理解できず、読み飛ばしたのだ」と分析している。

もし読み飛ばしていたのだとすれば、問題文を構成するフレーズは「Alexandra」「である」だけだ。さて、もしもAIだったらどのように解答するだろうか?「Alexandra」に関連性の深い「女性」を選択したかも知れない。

この辺りから、読んでいて背筋が寒くなってくる。

別の例として、学問、学童、学区、など「学」のつく熟語の読み方テストをしたところ、すべて「がっこう」と回答した子どもの事例が挙げられていた。

その子どもに「どうして全部がっこうと答えたの?」と質問したところ「その方が当たりやすいから」 と答えたという。

つまり、そもそも正解がわからないなら、確率の高い答えに絞って少しでも点を取ろうという発想なのだ。

 

お気づきだろうか? 読解力が低下した結果、子供たちが問題文の「意味を理解せず」に、確率の高い解答に「当てにいってる」のだ。

  

■読解力のない人類はAIに敗北するか?

 こういう思考プロセスの子供たちが大人になり、例えば職場で部下になった場面を想像してゾッとした。相手はこちらの話をまともに聞いておらず、フレーズだけを拾い取って「統計的に当たりそうな答え」を返してくるのだ。話は通じているようで、本質的な部分で噛み合っていない。なぜなら相手は「意味を理解していない」のだから。

 

そこまで考えて、ふと思った。

よくよく考えると、我々もすでに同じようなレベルでコミュニケーションを取っていないだろうか。

奥さんの話をよく聞きもせず、ふんふんと 相槌を打ちながら「あーそれは大変だねー」と聞き流す。「いつもの愚痴」の場合、とりあえず共感を示しとけば「外すことがない」という経験則に従って。

あるいは商談の場で、相手が難しい専門用語を並べた時も、わかったフリして頷いて、前後の文脈で意味を理解した気になってみたり。

人間の脳は消耗を避けるため、思考をショートカットする傾向があるそうで、同じような判断の繰り返しが発生すると、考えずに経験則に頼るようになるらしい。

能動的にしっかり「考える」というのはエネルギーを必要とする。だが必要な局面ではしっかり「意味を理解」し、頭を働かせて考えることをしないと、我々人類は計算機にも劣る存在になるかもしれない、ということだろう。

 

 

さて、最後にまたヨーロッパ旅行の話に戻る。

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イタリアにしばらく滞在した後、ビールのことをbirra(ビッラ)と呼ぶのだと知った。たまにはビールが飲みたいと思った僕はバーカロに立ち寄り、birraとバッカラマンテカート(干し鱈のペースト)を注文した。

英語とイタリア語が混じった片言のオーダーから「birra」と「バッカラマンテカート」というフレーズを聞き取ったひげ面の店主はニタリとして、ビールは出さずにイタリア語で何やらまくし立てた。

結局、僕はbirraではなく白ワインを飲むことになった。店主が「鱈にはこっちのワインが合う、間違いないから俺を信じろ」みたいなことを言ったからだ。もちろん、言葉は一言たりとも理解できなかったが、雰囲気でそう感じた。

AI技術はどんどん進化しているが、こういうクリエイティブな瞬間を生み出すのはまだまだ先のような気がする。人間を本当に驚き、喜ばせることができるのは、やはり人間だけなのだと信じたい。

ところで、ワインの味はどうだったかって?

もちろん、大当たりだった。

10年前のデスバレーと暑くならない夏と

今年の夏はいつもより暑くならず、ダラダラと雨が降り続いている。

夏はやはり、かーーっと暑くなって欲しい。照り付ける太陽に苛つきながら、滴る汗が地面に吸い込まれる様を眺めていたい。

そんなことを考えていて、十年前にデスバレー国立公園を訪れた時のことを思い出していた。

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死の谷の底で焼く卵は美味いか?

デスバレー国立公園はアメリカ合衆国カリフォルニア州にある。最寄りの都市はラスベガスで、車で2-3時間くらいの距離だ。

ここは全米で最も暑く、乾燥した国立公園であり、夏場には気温が軽く40度を超える。かつて56.7度という世界最高気温を記録したこともある。

あまりに暑く、ほとんど雨が降らないため、草木が茂ることもない。ただただ荒涼とした岩と砂漠が広がる、まさに「死の谷」と呼ぶに相応しい土地なのだ。

以前、「デスバレーの日差しで目玉焼きが焼けるか?」というお馬鹿な実験を試みた動画が話題を呼んだ。

アメリカ人はホントに阿保なことを考えるな、さすがに焼けるわけないじゃん、と思ったものだが、結果は予想を覆した。

目玉焼きは焼けた。焼けたどころではない、デスバレーで目玉焼きを焼くのが大流行したのだ。

www.cnn.co.jp

 と、いうわけで灼熱のデスバレー国立公園の観光シーズンは冬であり、真夏に訪れることは勧められない。

僕が訪れたのは確か10月の初めだったと思うが、とにかく想像を絶する暑さだった。

そして何より、人がいない。生き物の気配がしないのだ。

公園のエントランスは、荒涼とした砂漠の中にポツンと置かれた無人の料金支払い所があるのみだ。

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僕はレンタカーで訪れたのだが、こんな場所で車のエンジントラブルでも起こした日には、生命の危機に関わるだろう。

実際、公園内の路上にはラジエーターに給水するためのタンクが幾つも置かれていた。灼熱の死の谷の底で、オーバーヒートを起こして死にかけた人がたくさんいたのだろう。

 

この時に見た様々な経験を活かして、僕は数年後に「クイックドロウ」という小説を書き上げることになる。

何と言うことだろう……これではまるで本の宣伝ではないか!

クイックドロウ (ゴールデン・エレファント賞)

クイックドロウ (ゴールデン・エレファント賞)

 

 

死の谷に寄り添うゴーストタウン、ライオライト 

ちなみにだが、デスバレー国立公園のすぐそばには、ライオライトという町がある。

町、といってもすでに廃墟となったゴーストタウンだが。

だけどなかなか趣きのある場所なので、最近増えてきている廃墟マニアの方であれば気に入っていただけるのではなかろうか。

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ゴーストタウンなのだが、一応観光資源として機能していて、ビジターセンターがあった。……少なくとも10年前には。

 

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ちなみにこの場所も、拙著「クイックドロウ」の中に登場する。

主人公のモンドとブッチが、容赦ない銃弾の雨の中を駆け抜け、そしてようやく最初の斬撃が振るわれるシーンだ。

 

……ああ、これではまるで本の宣伝ではないか!

クイックドロウ (ゴールデン・エレファント賞)

クイックドロウ (ゴールデン・エレファント賞)

 

 

ちなみにデスバレー国立公園の名誉のために言っておくと、園内にはちゃんとビジターセンターもゼネラルストアも宿泊施設(ホテルとキャンプサイト)も存在する。

僕も担いでいった一人用のテントで一泊したものだ。

日が落ちると辺りは涼しくなり、人も木々も虫もいないせいで、極限まで静かな夜になった。

夜中のだいぶ深い時間、テント脇でコヨーテか何かがガサゴソと音を立てるのに驚かされたけど、静謐で良い夜だった。

出雲が消滅した理由と、最新刊「災神」の告知と。

しつこいようですが、わたくしめの最新刊「災神」が6月1日に発売となりました。
謎の災厄に襲われ、一瞬で壊滅した出雲の中で、外部との連絡が阻まれた生存者たちが生き延びようとするパニックサスペンスです。

まだ発売から間もないですが、読み終えた方々から「面白くて一気読みした」「途中から(読み終えるまで)あっと言うまでした!」などのコメントいただき……というか、ネット上をエゴサーチして確認しており、楽しんでいただけて幸いと思っている作者です。

そんなエゴサーチの最中「地方都市の出雲が舞台って珍しい」とか「いったい出雲に何の恨みが??」みたいなコメントを見て、なるほどと思った次第。

言われてみれば確かに、パニック物って普通は大都市を舞台にしますよね(よく言われることだけど、ゴジラガメラは都会にしか上陸しない)。

ではなぜ「災神」の舞台は出雲なのか?


実は僕自身は、出雲に格別な縁はありません。というより、この作品を書くまでは足を運んだこともありませんでした。

でも本作は海からやってき災厄に人類が立ち向かう、現代の神話として描かれた物語。だから舞台は神話ゆかりの地である出雲にしようと決めたのでした。

 

物語を書き進めるうちに、実際にこの目で現場を確かめたくて、出雲へ取材に赴きました。

 

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最初に訪れたのは、作中でも何度か登場する稲佐の浜です。かつて国譲り神話の舞台のなったこの場所の中央には、豊玉毘古命を祀った「弁天島」が鎮座しています。

これ以外にも、出雲の各地には神話ゆかりの名跡が様々あり、素晴らしいインスピレーションを与えてくれたのでした。

 

 

稲佐の浜を、高台にある奉納山公園から見下ろした風景。

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奉納山公園からは、市街地が一望できます。何が起きたのか、全てを見ることができるわけです。

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最後の決戦の舞台となるのが、この島根県立中央病院です。

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そして出雲そば(作中では戦闘糧食とビスコしか食べる機会がないですけどね)。

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初めて訪れた出雲は素晴らしい場所でした。

近いうちに、また足を運びたいと思っています。

そして「災神」がなぜ神話の形を取る必要があったのか、その話はまた今度!

【告知】2017年6月1日「災神」発売となります。

災いの神、とかいて「さいしん」と読みます。

ワタクシめの第2作目となる長編小説です。

前作「クイックドロウ」はアメリカを舞台にサムライが無双する物語でしたが、今作の舞台は謎の災厄によって壊滅した出雲です。

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いったい何が出雲を襲ったのか?というミステリから始まるこの作品。災厄のスケールを伝えつつも、その正体を冒頭から明かすわけにはいかない制約の中、挿画を手掛けたイラストレーターの田中達之さんが素晴らしいイラストを仕上げてくださいました。

 

表紙に描かれた子供とスマホ、その向こうに見える瓦礫。そして帯の下にも仕掛けがあって、本編を読み進めた後に見返すとニヤリとすることでしょう。

前作「クイックドロウ」のカバーデザインもかなりお気に入りだったのですが、今作も素晴らしいプロの仕事に大満足です。

 

あ、もちろん本編も面白いですよ。

僕の個人的な思いも含まれてはいますが、読者の皆様にはまず正統派のエンターテインメント小説として手にとっていただければと思います!

 

 

shoten.kadokawa.co.jp