AI に敗北する人類と思いがけぬワインの味と
数年前にヨーロッパを旅した時のことだ。
しばらくイギリスに滞在した後、LCCでイタリアに飛んだ。国境を越えるのは拍子抜けするほど簡単だったが、到着して自分がイタリア語を話せないことに気づいた。会話が通じないというのは本当に不便だ。
かろうじて“ボナセーラ”と“ビアンコ”、“ロッソ”という単語は思い出せた。おかげでバーカロ(居酒屋)でワインを注文することだけはできた。
■AIは人間を超えるのか?
話は変わるが先日「AI vs 教科書の読めない子供たち」を読んだ。
AI による東大合格を目指す「東ロボ君プロジェクト」の研究者の著書で、非常に面白かった。本の前半で「現在のAI技術」についての説明があり、今のままではAIが人間を超えることはないと断言されている。AIとは要するに「計算機」であり、意味を理解しているわけではない。与えられた計算以上のことはできない、という説明だった。
Siriの例がわかりやすかった。
「Siri、この近所にある美味しいイタリアンのお店を教えて」
と聞けば、Siriは最寄りのイタリアンレストランを検索し表示する。
ただし、これはSiriが言葉の意味を理解しているわけではない。「音声に●●なフレーズが含まれる場合は、●●という検索をして返す」というプログラム処理をしているだけだという。
この場合は「近所」「イタリアン」「お店」「探して」というフレーズに反応したのだろう。そういうフレーズが含まれる場合は、質問者がイタリアンのお店を探している可能性が高い、という判断だ。意味は理解していないが、確率的に質問者の期待に近い答えを「当てよう」としてるわけだ。
試しにと思って、
「Siri、明日は僕の息子の誕生日なんだけど、ご機嫌なパーティを開きたいからこの近所にある美味しいイタリアンのお店をできるかぎりの猛スピードで教えて」
と質問してみたのだが、同じようなリストが表示された。
Siriは「僕の息子の好み」も「ご機嫌なパーティの要件」も無視したのだ。まぁそれでも、イタリアンのお店を探すには十分な情報が提供された。なるべく期待に近い答えを当てようとしているのだとしたら、そこそこの成果だ。
それによく考えたら僕に息子はいないし、ご機嫌なパーティの予定もないのだった。
■統計と確率で正解を「当てにいく」計算機たち
著書の中に書かれていたわけではないが、知り合いのエンジニアから似たような話を聞いた。人間のチャンピオンを打ち破り、一躍有名になった人工知能の“アルファ碁”もまた「意味を理解している」わけではないらしい。
アルファ碁がやっていることは、盤面を画像解析した上で「過去データを分析すると、こういう石の配置の場合、次はこの辺りに置くと良い」という統計的な最適解を算出しているだけだと言う。それはつまり、膨大な過去データをコンピュータが計算しているだけの力業であり「何手先を読む」とかは関係ないわけだ。
所詮は計算機。人間様には根本的なところで及ぶまい、となるわけだが、ここで「AI vs 教科書の読めない子供たち」の話にもどろう。
この本の後半では、現代の中高生たちの「読解力」の不足について指摘している。
著書は東ロボくんプロジェクトとは別に、全国の中高生を対象とした「テスト問題の読解力」調査を行っているのだが、その中で次のような問題を出題しておかしな現象にぶち当たった。
■問題
Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称だが、男性の名Alexanderの愛称でもある。
この場合、次の( )に入る答えを選択せよ。
・Alexandraの愛称は( )である
①男性 ②Alex ③Alexander ④女性
さて、答えはもちろん②である。だが子どもたちの実に40%が④と答えているのである。いったいなぜだろうと悩んだ著者は「誤答した子供は“愛称”の意味が理解できず、読み飛ばしたのだ」と分析している。
もし読み飛ばしていたのだとすれば、問題文を構成するフレーズは「Alexandra」「である」だけだ。さて、もしもAIだったらどのように解答するだろうか?「Alexandra」に関連性の深い「女性」を選択したかも知れない。
この辺りから、読んでいて背筋が寒くなってくる。
別の例として、学問、学童、学区、など「学」のつく熟語の読み方テストをしたところ、すべて「がっこう」と回答した子どもの事例が挙げられていた。
その子どもに「どうして全部がっこうと答えたの?」と質問したところ「その方が当たりやすいから」 と答えたという。
つまり、そもそも正解がわからないなら、確率の高い答えに絞って少しでも点を取ろうという発想なのだ。
お気づきだろうか? 読解力が低下した結果、子供たちが問題文の「意味を理解せず」に、確率の高い解答に「当てにいってる」のだ。
■読解力のない人類はAIに敗北するか?
こういう思考プロセスの子供たちが大人になり、例えば職場で部下になった場面を想像してゾッとした。相手はこちらの話をまともに聞いておらず、フレーズだけを拾い取って「統計的に当たりそうな答え」を返してくるのだ。話は通じているようで、本質的な部分で噛み合っていない。なぜなら相手は「意味を理解していない」のだから。
そこまで考えて、ふと思った。
よくよく考えると、我々もすでに同じようなレベルでコミュニケーションを取っていないだろうか。
奥さんの話をよく聞きもせず、ふんふんと 相槌を打ちながら「あーそれは大変だねー」と聞き流す。「いつもの愚痴」の場合、とりあえず共感を示しとけば「外すことがない」という経験則に従って。
あるいは商談の場で、相手が難しい専門用語を並べた時も、わかったフリして頷いて、前後の文脈で意味を理解した気になってみたり。
人間の脳は消耗を避けるため、思考をショートカットする傾向があるそうで、同じような判断の繰り返しが発生すると、考えずに経験則に頼るようになるらしい。
能動的にしっかり「考える」というのはエネルギーを必要とする。だが必要な局面ではしっかり「意味を理解」し、頭を働かせて考えることをしないと、我々人類は計算機にも劣る存在になるかもしれない、ということだろう。
さて、最後にまたヨーロッパ旅行の話に戻る。
イタリアにしばらく滞在した後、ビールのことをbirra(ビッラ)と呼ぶのだと知った。たまにはビールが飲みたいと思った僕はバーカロに立ち寄り、birraとバッカラマンテカート(干し鱈のペースト)を注文した。
英語とイタリア語が混じった片言のオーダーから「birra」と「バッカラマンテカート」というフレーズを聞き取ったひげ面の店主はニタリとして、ビールは出さずにイタリア語で何やらまくし立てた。
結局、僕はbirraではなく白ワインを飲むことになった。店主が「鱈にはこっちのワインが合う、間違いないから俺を信じろ」みたいなことを言ったからだ。もちろん、言葉は一言たりとも理解できなかったが、雰囲気でそう感じた。
AI技術はどんどん進化しているが、こういうクリエイティブな瞬間を生み出すのはまだまだ先のような気がする。人間を本当に驚き、喜ばせることができるのは、やはり人間だけなのだと信じたい。
ところで、ワインの味はどうだったかって?
もちろん、大当たりだった。