
何じゃそりゃと思ったら、ファンタだった話。
今年の春、NOPEというギルティ炭酸をサントリーさんが莫大な広告費を投じてロンチさせた。電車のあちこちに広告が出て、テレビでも何度もお見掛けする。
一緒にお出かけしていると、娘がキラキラした目で電車内の広告を見つめて言った。
「パパ、あれって何かな?」
極端に情報量の少ないミステリアスな広告だったが、それが炭酸飲料だということは分かったようだ。未知の炭酸を目にして好奇心をくすぐられている。
小学生の娘の中では今、空前の炭酸ムーブが来ている。
現時点でのランキング首位は、先月はじめて試したジンジャーエール。その前はファンタレモン、少し前はカルピスソーダ。あちこちのファミレスで色んな炭酸飲料を試しており、いっぱしの飲み手になっている。
もともと、炭酸飲料はまったく飲まない子だった。
娘が産まれてはじめて炭酸を飲んだのは二年前だ。ホテル椿山荘のビュッフェで瓶のラムネを一口舐めて、ヴェーっとした顔をして全部残した。
印象深い出来事だった。きっと生涯忘れないと思う。忘れないのは、ビュッフェに目玉が飛び出るほどの料金を払わされたからだ。
椿山荘に行くことになったきっかけは、奥さんが「子供に蛍を見せたいね」と言ったことにあった。
その時僕は「ああ、いいね」とだけ答えた。自分自身、香川のド田舎で育ったこともあり、夏は水田の近くで蛍をよく見た記憶があった。親なら誰だって、子供に自分と同じ体験をさせたいと願うものだ。
ただ、東京で暮らす我々には近場に水田などない。グーグルで「蛍 東京 観れる場所」と検索してたどり着いたのが椿山荘の蛍鑑賞ツアーだった。
ツアーと言っても、千五百円くらい入場券を買えば庭園に入れてもらえるのだろうくらいに思っていた。
だが現実は、目玉が飛び出るほどお高いディナービュッフェに申し込んだ令和の貴族たちだけが暗い庭園の片隅で押し合いへし合いしながら豆電球ほどの照度で光る蛍をガラス越しにちらりと見ることができるというものだった。帰りにはよくわからないマスコットが描かれたエコバックをお土産にもらえる。
正直、金が惜しいわけじゃない。僕だってロイヤルホストで“厚切りワンポンドステーキ(税抜5980円)”をメニューも見ずに頼めるくらいの財力はある。だが目玉が飛び出るほどの料金を払ったにもかかわらず、蛍が京セラドームの二階席から見下ろすレディガガくらい小さかったことに都会の厳しさを思い知ったのだ。
閑話休題。
初めて飲んだラムネが美味しくなかったせいで、それから娘ちゃんが炭酸飲料に手をのばすことはなかった。
流れを変えたのは、クールな女友達の存在だ。
仮にKちゃんと呼ぼう。
運動神経抜群で、お絵かきが上手だった女の子。娘と同じ保育園に通っていたのだが、卒園のタイミングで東南アジアのS国に移住してしまった。
去年の夏、保育園仲間と一緒にKちゃんの住むS国へ遊びに行った。巨大なプールで遊び、夜の動物園へ出かけ、Kちゃんの住む素敵なタワマンに招かれた。そして郊外の科学館へ遊びに行った時、Kちゃんが格好良く飲んでいたのがファンタだった。
日本に帰国する日のこと。空港で飛行機を待つ間、娘が僕に言ってきたのだ。
「パンタが飲んでみたい」
何のこと? と思ったが、空港内のセブンイレブンで娘が見つけた缶を見てそれがファンタのことだと理解した。
それからだった。娘が人が変わったように炭酸飲料を飲むようになったのは。
※ ※
ここまで書いて、強烈な違和感に襲われた。
何かおかしい。
お気づきだろうか、娘は“ファンタ”を“パンタ”と聞き違えた。だが三歳児ならいざ知らず、小学生が“ファ”を“パ”と聞き間違えるなんてことがあり得るだろうか?
ファミレス→パミレス。
ファイナルファンタジー→パイナルパンタジー。
……あり得ない。
僕はペンを置いて、娘と奥さんが寝静まった寝室の前を通り過ぎる。
リビングの壁に張った連絡プリントの前に立つと、昨年から頻発している不審者の目撃情報に目を通した。S国への旅行のタイミングと時を同じくして、我が家の近隣でペットが襲われる事件が多発している。被害に遭ったのは犬や猫。いずれも全身から血を抜かれて、絶命していたと言う。
僕はスマホを取り出して、ふとS国の現地語について調べてみた。そして翻訳結果を見て青ざめる。
パンタとは、血という意味だった。
“パンタが飲みたい”
その言葉が何を意味していたのか理解したタイミングで、玄関のドアノブがガチャリと音を立てた。鍵をかけ忘れた? そう思いながら玄関へ振り向いた僕は、暗がりに立つ少女の姿を見た。
「……Kちゃん?」
一瞬、娘の友達のようにも見えたが、よく観察するとそれは人間ではなかった。鋭い犬歯、ざんばらに垂らした長い髪。赤い瞳。
次の瞬間、唸りを上げて怪物が襲い掛かって来た。
危ない。
咄嗟に手近にあった物を掴んで叩きつけると、人ならぬ者の叫び声を上げて怪物は逃げて行った。
掴んだのは、椿山荘でもらったエコバックだった。国産のしっかりした生地だったおかげで怪物を撃退することが出来た。
僕は肩で息を切らせながら玄関にたどり着くと、しっかりと鍵を閉める。またあの怪物が襲って来るかも知れない。寺生まれのTさんに連絡を取ろうと、スマホを取り出す。恐怖のせいで手が震えてうまく操作できない。
それにしても、誰が玄関の鍵を開けたのだろうか?
プシュ。
背後から聞こえた音に気づいて、僕はゆっくりと振り返った。
暗い廊下に立つ子供の人影。手にしているのは昨日買ったばかりのNOPEの缶だ。
それをゴクリと飲んだ影がゆっくりと首を左右に振って、微笑みを浮かべた。
「パンタが飲みたい」
その飽くなき欲望に、僕はぞっとした。























