ロンドンの幽霊宿と、温かくたっぷりな朝食
GPSはこの場所が今夜の宿だと示している。
だがそこには古ぼけたパブが一軒あるきりで、ホテルらしき建物は見あたらない。
英国のミステリースポットを訪れるため、フランスからユーロスターでロンドンに入った初日の出来事だ。
宿はロンドンから少し離れた住宅街の安いホテルを予約していた。
時刻は十五時過ぎ。
探していたホテルは見当たらず、悪いことに一時間ほど前から猛烈な便意を催している。住宅街なので、トイレを借りられそうな商店などもない。
仕方なく、古ぼけたパブの扉を叩いてみることにする。中にはどんな人が待ち受けているのだろうか。
これはH.P.ラグクラフトの怪奇小説などではない。2014年の夏、私が体験した鮮烈かつ強烈な事実の物語である。
「もしかしてだけど……ホテルを探してるのかな?」
まだ陽の高い午後だと言うのに、パブの中には三人の男女の姿があった。カウンターの中に若い女性のバーテンダー、カウンターには老人と若い男性が座り、ヒソヒソと言葉を交わしている。
私が入っていくと会話が止んだ。六つの青い目が、場違いなアジア人旅行者の姿に向けられる。
手前に座っていた若い男が、肩をすくめた。
「もしかしてだけど、ホテルを探してきたお客さんかな?」
私が頷くと、三人はやれやれ、という表情を見せた。灯りにひきつけられ、たまに迷い込んでくる愚かな羽虫でも見るように。
「宿は二階だよ」
老人が天井を指差す。一階がパブで、二階がホテルという形式だったのだ。礼を言ってパブの奥の階段に向かいかけた私を、バーテンダーが呼び止める。
「待って、改装中だからそちらからは上がれないわ。パトリックに言って、裏口から上げてもらわないと……」
パトリック?誰だそれは、と思ったが、それ以上に気になるのはその名前が口にされた瞬間、三人が同時に顔をしかめたことだ。まるで忌わしい何か、呪われた名前でも口にするように。
私は自分がどうすればいいか分からず、その場に立ち尽くした。英語で何と言えばいいのか、考え始める。
その時。
「おい、パトリック!パトリック!」
若い男が、パブの開け放たれた扉の外に向かって声をかける。私が振り向くと、通りを歩く若い男の姿が目に入った。よれよれの灰色のトレーナーを着た、太り気味の白人の青年。
パトリックはおどおどした表情でこちらを見た。説明してもらわなくとも、彼がコミュ障だってことはよく分かる。そして彼がこの町の“のび太くん”なのだということも。パブにいる面々が、面倒くさそうに、だが仕方ないという諦めの雰囲気で彼と接していたからだ。
「ほら、お客さんだよ、パトリック」
とびきり虚ろな青い瞳が私を出迎えた。
「ハイ、僕はパトリック。何かあれば電話して、この宿はとても快適だ……」
パトリックはパブの裏手にある扉を開けて、私を中へと案内する。
宿の中は何と言うか、改装中だとしか思えない有様だった。
古ぼけた建物はあちこちの壁紙が剥がれ、柱の塗装が剥がれて床に散らばっている。カーペットは煙草の焦げ跡だらけだ。足を踏み入れた瞬間、暗鬱とした気分に襲われる。
私を角の部屋に案内したパトリックは、こちらの目を一切見ないまま、ボソボソと設備の説明を始めた。
「ハイ、僕はパトリック。あなたの部屋はこちら。バスルームは共同なので後で説明する。wifiのパスワードはあそこに書いている。朝食は……」
パトリックは窓際に立つと、通りの向かいの店を指差した。
「あなたはあそこで快適な朝食をとることができる。とても便利だ」
電灯の切れかけた看板を掲げた、古ぼけた食堂が目に入った。
説明が続く間、私にはひとつ気になることがあった。
「パトリック、どうもベッドメイクがされていないようだけど……」
恐る恐るそう指摘すると、パトリックはシーツのかかっていないベッドに目をやり、しばらく考えた後でこう口にした。
「そうだ。ベッドメイキングが遅れてる。あと……三時間くらいで終わる」
「そう……だったらいいけど。夜には間に合うから」
時刻は十五時過ぎ。要するにシーツの発注を忘れていたのだろうと考えながらも、私は愛想笑いをした。何故か彼と言い争う気にはなれなかった。
だがパトリックは私の笑みを無視し、少し怒ったような口調で付け加えた。
「何かあれば、ここに電話して欲しい。僕が対応する」
電話番号を手書きしたメモを僕に押しつけると、パトリックは立ち去った。一切こちらの目は見なかった。
結果的に、その番号に電話をかけることは無かった。部屋の鍵は閉まらなかったし、Wifiは繋がらなかったけど。なぜなら字が汚すぎて電話番号が判読できなかったからだ。
シャワールームの悲劇と、腹を割くような絶叫。
どうやらそのホテルに、客は私しかいないようだった。部屋で荷解きをした私は、まずトイレの場所を探すことにした。
バスルームと書かれた扉を開けると、だだっ広い部屋の片隅に簡易式のシャワーブースが据え付けられているだけだった。脱衣所も洗面器も無いし、床には排水溝もない。その奥には扉があり、開けてみると便器があった。
もともとはランドリールームだった場所に、無理やりシャワーブースを設置したように思える。脱いだ衣服やタオルを掛ける場所も無い。
トイレを済ませた後、私はシャワーを浴びた。タオルや着替えをビニール袋に詰めてドアノブに引っ掛け、日本から持参したビーチサンダルを履く。デスバレーの砂漠のキャンプ場でもここよりはマシだったと思いながら髪を洗った。
感動的なことに、石鹸、シャンプー、リンスは部屋にあった。いつからそこに置いてあるのかは知らないが。
シャワーから出た私は、角の向こうから誰かがこちらへ歩いてくる足音を聞いた。
このホテルには僕とパトリックしかいない。だから多分、あれはパトリックの足音だろう。そう思って自分の部屋へと向かう。
足音が近づいてくる。
真っ直ぐ進めば、足音の主と角のところで鉢合わせする感じだ。僕は相手にこちらの存在を知らせるように、わざと足音を立てて歩いた。
やがて、角に到達した。
「うわあぁぁぁぁっっっ!!!!」
絶叫。
パトリックが絶叫している。
さっきまでボソボソと喋っていた若者とは思えない、家系ラーメンの店員かと思わせる大音声だ。
それは、絶対に会ってはいけない何かと出くわしてしまった者の恐怖のように思えた。
やがてこちらと目が合うと、パトリックは相手が何者か認識したようで、ボソボソと詫びながら立ち去って行った。
おい、 パトリック。
このホテル、絶対何か出るだろ。。。
温かくたっぷりな朝食。
夜中、ドンドンとドアを叩く音に目が覚め、何やらギリギリと窓枠をこじ開けようとする音に気づいて外の様子を窺おうとして、窓の外に魚のような顔をした人物の顔を見つけてぎゃああああーーー!
みたいな展開にはならず、無事に夜が明けた。時刻は七時過ぎ。
腹を空かせた私は、パトリックに教えられた食堂で朝食をとることにした。テーブルが四つほどの小さな食堂。薄汚れたコックコートを着た店主が一人で切り盛りしている。
向かいの宿に泊まっているのだけど……と告げると、ニコリともせずに「何でも注文しな」とこちらに告げる。料理名が良く分からなかったので、朝食セットみたいなものを注文する。
山盛りの芋と豆が出てきた。
1500キロカロリーはあると思う。
インパクトが強かったので、写真は二枚撮った。
この日から一週間ほど英国に滞在したのだが、朝食は常にこんな感じだった。たっぷりの芋と豆とソーセージと卵。そして、温かい。朝食はいつでも温かかった。味はともかくとして。
茶色く塩辛いそれを半分ほど平らげると、私はホテルを後にした。
教訓。
今回の宿はExpediaで予約した(一泊50ポンドくらい)が、よくよく考えるとレビューが一件も無かった。レビューは定性的な評価を得るための貴重な情報源だ。もしも選択肢があるなら、レビューの無い宿は避けた方がいい。
旅から帰ってきてこの記事を書くにあたり、再びこの宿の情報を確認したが、やはりレビューは一件も無かった。ツッコミどころが多過ぎて、みなレビューを書くのを断念してしまうのだろうか。
それとも、この宿に泊まった人たちは皆、魚のような顔をして口をパクパクさせるだけの存在に成り果ててしまったのかも知れない。
あ。。。ノックの音が聞こえた。誰か来たようだ。