出来過ぎた日本の自販機と、マイアミに鳴り響いた19ドル90セント
“なか卯”で親子丼を食べていると、店の入口で怒鳴り声がした。
ふと見ると、入口近くにある食券の券売機の前で、50歳くらいのお父さんが店員を相手に顔を真っ赤にしている。
手に握りしめているのは一万円札。
「一万円が、使えないじゃないか!」
その券売機には千円、五千円、一万円札対応と書かれていたけど、故障していたらしい。なのでお父さんは店員に怒鳴り散らしていた。
挙句─。
「もういい!親子丼なんかいらん!」
と叫んで店を出て行ってしまう。ベトナムからの留学生っぽい店員が、お父さんの背中を悲しそうな顔で見送った。
いい年した大人が、一万円札が使えないくらいで激昂するその光景を見て、僕は思った。日本は本当に自動販売機大国なのだと。
賢すぎる日本の自動販売機
よく言われることだけど、日本は海外と比べて自動販売機の普及が進んでいる。治安が良く、人口密度が高いことがその成功の秘訣だと言われている。
その一方で、日本人のシャイな国民性も影響してるのでは?と僕は思う。
通勤途中の風景を見ればそれは一目瞭然だ。日本のキオスクでは、手練れの売店のおばちゃんが、小銭と引き換えにスポーツ新聞をシュリケンのように投げて寄越す。会話は介在しない。
だがイタリア人はバールに立ち寄っては、買ったコーヒーが冷めるくらいお喋りを続けるのだ。
シャイな日本人は自販機の普及と、進化をドンドン進めることとなった。
日本コカ・コーラはアプリで操作できる自販機(自販機を操作できるアプリ?)まで開発してしまった。
数年前からよく見かけるようになった、「acure(アキュア)」という自動販売機も実に日本的だ。これまでモックアップを張り付けていた飲料サンプルを、液晶表示にすることで不要にした。
その上この自販機は顔認証機能を備えており、飲料を購入しようとする人の年齢・性別を識別して「最適な商品をオススメ」してくるのだ。
実に日本的だ。クールで便利、ハイテクだが、ちょっとだけ「いらない」機能を付けてしまうあたりが。
ミスを許さない日本人。“出来過ぎ”を“当たり前”に
話は“なか卯”に戻る。
激昂して帰って行ったお父さんについて。
なか卯の券売機は、タッチパネル式の液晶画面を備えたハイテクな奴だ。普通なら、店員の助けなんか借りなくても、スッスとオーダーを済ませられる。
だけどその自販機が故障して、お父さんの一万円札を受け付けなくなった。
やはりこういう時、自販機大国の 国民は怒り出すのだ。
日々ハイテクに囲まれて暮らしているせいで、あらゆる機械が精密・精緻に動かなくては気が済まない。
新幹線が一分遅れると謝罪のアナウンスが流れ出す。
自動改札機にかざしたSUICAの反応が悪くてもイラッとしてしまう。
海外と比較して見れば驚異的な精度で動いている“出来過ぎた”システム。だがそれが日常となっているため、出来て“当たり前”になっている皮肉だろう。
マイアミに響いた19ドル90セント
話は変わるが、先日フロリダに行って来た。
燦々と降り注ぐ太陽、のんびりとしたビーチリゾートやキューバ料理の話はまた別の機会に譲るとして、忘れがたい思い出が一つある。
一週間ほどの旅行が終わりに近づいたある日のことだ。
財布に釣銭のコインがやたらと貯まっていた。海外の硬貨はパッと見で額面が分かりにくく、買い物の時に使うのを躊躇してしまうからだ。
このコインをどう消費したものか考えていた。小銭を積み重ねてスタバでコーヒーでも買えばいいのだろうが、何となく気恥ずかしい。
そんな時、出かけた先のショッピングモールでスナック菓子の自販機を見つけた。
そうか、自販機なら落ち着いて小銭だけで買い物ができる。
そう考えた私は、財布からコインを取り出して投入し始めた。
自販機は25セントだけでなく10セントも受け付ける仕様だった。次々にコインを投入し、1ドル60セントほども入れたところで、コインが尽きた。
だが買おうと思ったポテトチップスには10セント足りない。
私は苛々して財布を探ったが、残りは5セント、1セント硬貨しか残っていなかった。
仕方なく、紙幣を入れようと財布を探ると、これまた運悪く20ドル札しかない。まあいいかとそれを突っ込んで、商品ボタンを押した。
チャリン、チャリン。
機械が動作し、ポテトチップスが棚から押し出されると同時に、釣銭が返却される音が響き渡った。それを耳にした瞬間、ハッとなった。
21ドル60セント投入して、お釣りは19ドル90セント。
日本の賢い自販機であれば、まず19ドル分の紙幣が返却され、続いてコインが戻ってくるはずだ。
だがしかし、耳を打つのはチャリン、チャリンという硬貨が落下する音だった。
これは、まずい。
アメリカのアホな自販機は全額、コインで返却するつもりだ。
財布の小銭を減らそうとしたはずが、圧倒的に増加させて何とする。これではまるで、こぶとり爺さんに出てくる悪い爺さんのようではないか。
慌てて自販機を止めようと、キャンセルボタン的なものを探す私を、さらなる驚愕の事態が襲った。
カチャーン、カチャーン。
釣銭を返却する音が変化したのだ。
コインが釣銭受けに落下する音が消え、自販機の内部でパーツが動作する音だけが鳴り響く。
これはつまり、自販機の内部に蓄積されていた釣銭が切れたことを意味する。
僕は唖然とした。この自販機は、釣銭が切れたにも関わらず返却動作を止めようとしないのだ。エラーになって止まったりしない。
カチャーン、カチャーン。
僕は自販機を叩き、揺さぶり、あらゆるボタンを押した。ちょっと待て、気は確かか?お前(自販機)は釣銭を返したりはしていない。そのカチャーンという音を止めろ。
やがて自販機は19ドル90セント分の返却音をきっちりと鳴らした上で、動作を止めた。
「お釣り、返しましたやろ?」
そう言って、すっきりとした顔で笑っているように見えた。
私は悔しさに震えながら自販機から商品を取り出した。21ドルもするポテトチップスだ。ソルトビネガー味だったが、むしろ涙の味に思えた。
“なか卯”で激昂して帰ったお父さんは、一万円札が使えなかったことに激昂して帰って行った。だがマイアミで自販機に20ドルを毟り取られた私からすれば、贅沢極まりない態度に思える。
提供されているサービスが少しくらい不具合を起こしているからと言って、それが怠慢や悪意の類でない限り、少しくらい多めに見る寛容さが必要ではないだろうか。
それが現代日本に心の豊かさと、情緒の潤いをもたらすと信じている。
さて、このブログをアップしようとしたが、どうやらスタバのWi-Fiの調子が悪いようだ。この件についてはきっちり店側に抗議してくるとしよう。
映画「クリード」と強いパンチを浴びる人生
ふと、思い立って「クリード」という映画を観て来た。
昨年末に公開された「ロッキー」シリーズの最新作だそうだ。
頭の中からロッキーのテーマ曲が離れない。
そんな出来事があって背中を押されたのだった。
※この記事は盛大なネタバレを含んでいる。読む前に今すぐ映画館に行き「クリード」を観ることをお勧めする※
●地雷臭に満ちた「ロッキー」のスピンオフ映画
はじめて「クリード」について聞いた時、ちょっと思ったのだ。
「あれ?ロッキーって7年ぐらい前にシリーズ完結を宣言してなかったっけ?」
そう、還暦を迎えたロッキー・バルボアが、一夜限りの復帰戦に挑む名作「ロッキー・ザ・ファイナル」がシリーズの最終作だったはず。
僕だけじゃない。「クリード」の話を耳にしたあらゆる映画ファンは考えたはずだ。
「どうしたスタローン。終わったはずのシリーズをまた引っ張り出すとは、引退を撤回しまくる大仁田厚みたいじゃないか」と。
「クリード」のあらすじは、かつてのライバルだったアポロ・クリードの息子をロッキーが鍛えるというもの。
今年70歳になるスタローンが、自分じゃもうアクションは無理だからアポロの思い出まで引っ張り出して映画を作ろうとしているのか?
これは何だかもう、地雷臭しかしない。
そう思ったのだが、どうやら実態は少し違うみたいだ。
この映画は厳密には「ロッキー」ではなかった。
●スタローンの人生を反映させたのが「ロッキー」
「ロッキー」は、とある三流ボクサーが世界チャンプとの試合に挑むという物語だ。
シリーズは6作目まで作られて大ヒットしたが、1作目の「ロッキー」が生まれた背景にはドラマがある。
当時、無名だったシルベスター・スタローンは、モハメド・アリと戦ったチャック・ウェプナーというボクサーの健闘に感動し、3日で「ロッキー」の脚本を書き上げる。その出来に関心した映画会社が脚本を高値で買い上げようとするが、スタローンは自分を主演とする条件を譲らず、結果的に「ロッキー」は低予算映画として制作される。
ロッキーは三流ボクサーで、チンピラの手先になるようなダメ人間。すでに中年に差し掛かりつつあるが、人生の勝利とは程遠い場所にいる負け犬だった。
だがそんなロッキーがエイドリアンと出会い、愛する彼女のために世界チャンピオンのアポロ・クリードに立ち向かう。
試合前にロッキーはつぶやく。
「もしも試合が終わっても立っていられたなら、俺は自分がただのチンピラじゃないと証明できる気がする」
そしてロッキーはアポロと戦い、フルラウンドの死闘の末に判定負けとなる。
ボクサーが戦って、負ける物語。
端的に形容すればそれだけの話なのだが、映画を観た人は誰もロッキーが負けたなんて思わない。
試合終了の直後、ボコボコに殴られ、腫れあがった顔でロッキーは愛する人の姿を探す。そしてエイドリアンと抱き合い、映画は終わる。
試合には負けたけど、ロッキーは自分自身を証明し、愛を手にすることができた。
周囲からは馬鹿にされ、手も足も出ずに秒殺されると思われていたけど、ロッキーは最後まで諦めず、ダウンしても立ち上がったからだ。
その姿は当時のシルベスター・スタローンとぴったり重なる。
負け続けの人生、だけど諦めずに、諦めずに前へと進むことで、いつか勝利を掴む。
実際に「ロッキー」は大当たりし、無名の三流役者だったスタローンは一躍スターになった。
●「クリード」の企画を持ち込んだ20代の映画監督
「ロッキー」シリーズは全てスタローンが脚本を手掛けている。だがこの「クリード」の脚本・監督を務めているのはライアン・クーグラーという新人映画監督だ。
彼はこの企画をスタローンに持ち込み、映画化を懇願したそうだ。
当初、スタローンは断った(本人によればノー、ノー、ノーと言ったらしい)。シリーズは6作目で綺麗に完結していたし、新たに映画を撮る理由が無かったからだ。
だが最終的には根負けし、映画への出演を承諾した。
この話そのものが、まるで「ロッキー」の再現だ。スタローンは若い無名の映画監督に、かつての自分と同じ情熱と執念を見たのだろう。
テンポの良い映像、不器用でリアリティのある恋愛ドラマ。ロッキーを下敷きにしつつも、より現代的な映画に仕上がっている(特にノーカットで繰り広げられる中盤の試合シーンは圧巻だ)。「クリード」は新たな若い才能によって、従来の「ロッキー」シリーズとは少し違った趣を打ち出した。
だが内包するテーマは同じだ。
主人公である若いボクサー、アドニス・クリードは父の名を背負って無敗のチャンピオンに立ち向かう。物語のラスト、フルラウンドの死闘の末、アドニスは惜しくも勝利を逃す。
この敗北こそが、「ロッキー」シリーズの本質だと思う。
「ロッキー」でもシリーズ最終作の「ロッキー・ザ・ファイナル」でも、主人公が試合に負けて物語が終わる。
だけど勝とうが、負けようが結果は関係ない。
立ち向かう者の美しさを讃える物語だからだ。
●人生で大切なのは勝利ではない
勝利だけが人生のゴールではない。
多くの人にとって、敗北こそが日常だ。
人生には大なり小なり、あらゆる形の敗北が立ち塞がっている。勝ち続けられる人間はいない。
もしも奇跡的に無敗を貫けたとしても、人生の最期には死という敗北が待っている。
その終局から逃れられる人間はいない。
勝利だけが人生の価値だと考えていたなら、最期の瞬間、人生の旅立ちはひどく味気ないものになってしまうだろう。
6作目の「ロッキー・ザ・ファイナル」で、ロッキーが自分に反発する息子に語るシーンがある。
「人生で大切なのは、どれだけ強いパンチが打てるかじゃない。どれだけ強いパンチに耐えられるかだ」
ロッキーの物語の中で最重要なのは、勝利ではない。
勝つことが素晴らしく、負けることが無様だとされがちな現代で、こういう泥臭い美学を持つことも大切なのではないだろうか。
「クリード」の中で、ロッキーがアドニスにシャドーボクシングを教えるシーンでのセリフがある。
「鏡の中にいる奴を見ろ。そいつは何度もお前に立ち向かってくる手強い相手だ。そいつに打ち勝て。ボクシングも、人生も同じだ」
多くの人にとって、敗北を運んでくるのは自分だったりする。
そいつと向き合い、諦めずに立ち向かう勇気を持つこと。その大切さを教えてくれる映画なんだという気がする。
つい先日、ロッキーのテーマ曲を愛した人を見送った。
きっと、強いパンチを耐えながら過ごした人生だったのだろう。
くたびれ果てていたけど、いい顔で眠っていた。
映画「進撃の巨人」と観劇の初心〜巨人はウルトラマンだった〜
一応、原作は途中まで読んでたしアニメも見たけど、映画版に対しては予備知識が無く、シートに着座した時点で前後編の前編だということを知った。
なのでもちろん、キャストや設定が色々と変更になっていることも知らなかった。
リヴァイ兵長の代わりに、東京ガスのCMでウナギイヌと戯れていた長谷川博己さんが、「シキシマ」という謎のキャラになって「ムハハハ」と怪演していることにちょっと驚いた。
ちなみに原作では「立体機動装置」というギミックを使って空を飛び、剣でうなじを切り落とすのが巨人を倒す唯一の手段として描かれているのだけど、映画では斧担いでる奴とか、弓を持ってる奴とか、「そもそも飛ぶ気ないでしょ?アンタ」みたいなキャラがちらほら出てくる。
中でも爆笑したのは怪力キャラが巨人を投げ飛ばすシーンで、もうそんなに強いんならエレンが巨人化せんでもええやないかと思ってみたり・・・・・・。
■写実な実写に用は無いわけですよ
■久々に正統派の怪獣映画を見たわけですよ
で、結局のところ映画は面白かったの?という質問に対しては「面白かった!」と答えたい。
観に行く人は一回、原作は忘れた方がいいと思う。これは夏休み怪獣映画なのだから、原作との相違をあれこれ悩んで観ない方がいい。
壁の外から襲ってくる規格外の化け物と、蹂躙される人類。起死回生のための捨て身の作戦、馬鹿をやって死んでいく仲間たち。そして人類の側から立ち上る反撃の狼煙!
普通に観て、面白くないはずがないのだから。
映画を見るときには下手な予備知識を持たず、スクリーンから得る情報だけをシンプルに味わった方がいい。まさしく初心に返って映画を見る価値に気付いた一日だった。
ちなみに今回、4DXという座席が映像に合わせて振動するギミック付きのシネコンで観てきた。これは映画のシーンに併せて座席が揺れ、傾き、風や水飛沫が吹きつけてくるというものだ。
もしもご近所にこのギミックが配備された映画館があるのなら、ぜひ体験されることをオススメする。
巨人が壁を破壊するシーンでは盛大に座席が揺れ、そっと近づいてくるシーンでは頭上から唾液が滴り、ミカサが巨人に切りつけると血しぶきが顔にかかる。もうびっしょびしょになる。
想像以上に激しく揺れ、容赦なく水飛沫が噴射されるから、クライマックスの殺戮シーンではもう大騒ぎだ。もう何度途中で座席から飛び降りようかと思ったことか。
■巨人の正体はウルトラマンだったのか・・・・・・
アメリカでキャンピングカーをレンタル(4) ~キャンプサイトでのインフラ編~
過去記事はコチラから↓
アメリカでキャンピングカーをレンタル(1) ~借りるまで編~ - 風とビスコッティ
アメリカでキャンピングカーをレンタル(2) ~実際にキャンプする編~ - 風とビスコッティ
アメリカでキャンピングカーをレンタル(3) ~運転する編~ - 風とビスコッティ
少し前に、電気自動車が搭載した巨大バッテリーによってキャンプ場で電源を確保できることをCMにしていた。
“電気自動車が実現する、ハイテクで快適なアウトドア生活”というわけだ。
だが、アメリカではそんなハイテクかつ繊細なソリューションは行わない。根っから大雑把な彼らはむしろ、キャンプ場にそのまんま電気や水道や無線Wi-Fiを引いてくる。キャンプ場にもコンセントがあり、家で過ごすのと同じようにテレビやネットが見られる、プレステで遊べる。そしてアイスが冷やせてピザがあっためられるのだ。
モーターホームでキャンプ場に乗り付け、指定されたサイトに駐車すると、据え付けのテーブル・椅子に加えて、上図のようなものが目に入るだろう。
これこそが、モーターホームの車内を自宅にいるかのように快適にしてくれるインフラなのだ。中央の配電盤にコードをつなげば電気が供給され、地面から出ている給排水の口にホースをつなげば水道が使える。
ちなみに給水と排水の口とホースは別々だ。モーターホームでは移動中でも水道が使えるようになっているため、排水は自動的にタンクに貯められる。なので給水はホースをつないで随時行うが、排水に関しては都度「タンクの中身を下水に流す」という処置を行う。
ちなみシンクなどで洗い物などをした排水は「グレータンク」に貯められるが、トイレから出る排水は「ブラックタンク」に貯められる。排水のレベルで区別されているのだ。なのでそれぞれ排水処理を行う際のホースも種類が異なる。決して混同してはいけない。
↓↓↓↓↓↓写真はブラックタンクの中身を排出しているところ。色々と危ない。
さて、こうしてサイトのインフラに接続している状態であれば、電気と水は無尽蔵に供給されるわけだが、実はモーターホームにはこれとは別にプロパンガスが搭載されていて、キッチンのコンロや冷蔵庫の冷却、停車時に使う暖房などに用いられている。このプロパンガスはすぐに切れるものではないが、キャンプ場のサイトでは供給されず、ガソリンスタンドなどで別途補給するしかないので注意して欲しい。
いずれにせよ、キャンプサイトに着きさえすれば後は快適なモーターホーム生活が待っている。
以前の記事にも書いたが、アメリカのキャンプ場はトイレ、シャワー、売店が完備されており、清潔で快適だ。たいては美しい緑に囲まれ、のんびりとするにはもってこいの場所にある。
↓↓↓↓↓↓↓写真はセドナの外れにあるキャンプ場。緑が多くて静かで、ドッグオーナーが多かった。
↓↓↓↓↓↓トイレ&シャワー&ランドリーの小屋。狭いけど清潔
ちなみに売店の写真を撮り忘れてしまったが、キャンプ場の売店では大抵のものが売っている。一例を挙げると下記のような感じ。
・食料品(加工食品、菓子、アルコール類などはもちろん、時として各種精肉など)
・燃料(薪やら炭やら着火剤やら)
・日用雑貨(洗剤から石鹸・シャンプーなどのコスメティックまで)
・土産物
さらにはモーニングコーヒーのサービスを振る舞うキャンプ場などもある。アメリカ人は無料のモーニングコーヒーが大好きだ。
ザイオンのキャンプ場に一泊した翌朝、マグカップを片手にウロウロと徘徊する老人の一団を見た。朝の散歩をしていた私を捕まえて「コーヒーはどこだ?」と問い詰めてくる。
それぞれ20万ドルはするであろう、豪華なモーターホームで乗り付けているセレブ老人のくせに。僕は「あっちじゃないですか?」とランドリールームの方を指さした。
そして老人たちがガヤガヤとその場を立ち去った隙に、売店の脇に置いてあるコーヒーポットにたどり着き、無料のコーヒーサービスを楽しんだ。
麦茶のように薄いコーヒーだった。
野良Wi-Fiと野良ネコと
最近、山手線に乗ってスマホをいじっていると、特定の駅にさしかかった時、回線が重くなってネットが開かないことが多くなった。
電波が弱いのかと思ったが、実際はその逆だ。JR東日本が提供する「JR EAST FREE wifi」という無料のWi-Fiサービスがあり、そのアクセスポイントに近づくことでスマホがWi-Fiに切り替わり、接続待ちになっているのだと思う。
●年間1300万人の訪日観光客に向けて
●街に飛び交う野良Wi-Fi
いきなり!ステーキと、切り損ねた肉と。
立ち食いスタイルでステーキを安く提供し話題になった『いきなりステーキ』に行ってみた。
イスラム国と人質の値段と、日本からの反撃の狼煙
2015年1月20日、ISIS(イスラム国)によって拘束された日本人二人の身代金として2億ドルが要求された。
その後、要求に応えない日本政府への見せしめとして湯川遥菜氏が殺害された。
続いて残された後藤健二氏の身柄については、ヨルダンで拘束された爆弾テロの実行犯との交換が要求された。
だが結局、人質の交換は実現しなかった。
そして二人の日本人が、遠い中東の地で命を奪われた。
人質の値段と、ISISが欲しがるもの
拘束された二人の日本人について(特に湯川氏に関しては香ばしい噂が流れたせいで)“自業自得”と思っている人も多かったようだ。
特に最初に提示された身代金が2億ドルと破格であったため、
「あんな自業自得としか思えない危険行為を犯した人物のために、2億ドルもイスラム国にくれてやる必要は無い」
という意見がネット上に飛び交っていた。
だがどんな経緯があったにせよ、人の命であることに代わりはない。
「いらん、殺せ」
と言える権利を持つ人間はこの世に一人もいない(無論ISISにも彼らを殺す権利はない)。
だが結局、2億ドルだろうが2万ドルだろうが、『テロに屈さない』という理由で身代金が支払われることはなかっただろう(※テロに資金援助すれば間接的に彼らの破壊行為に手を貸すことになるし、脅迫に屈せば今後も邦人が誘拐の標的になるからだ)
またISISが要求した身代金の2億ドルとは、日本政府がISIS対策に拠出を表明した援助金と同額であり、つまるところ
「俺らに喧嘩売るのはやめとけ」
という示威行為に過ぎなかったという見方もある。つまり、最初から2億ドルもの身代金が払われるとは思っておらず、最初から殺す気満々だったでは?ということだ。
そして最終的にISISは人質の命を奪い、「アベのせいで二人は死んだ」と声明を出した(もちろん、二人の死は“アベのせい”ではなく、“ISISが殺した”からなのだが)。
彼らは欲しいものを手に入れたのではないだろうか。つまり「俺らに喧嘩売るやつらは痛い目にあう」という印象を再び全世界に伝えた。そして対岸の火事だとタカをくくっていた日本人に、自分たちも被害者になりうるのだという意識を植えつけた。
もしこれが戦争なのだとしたら。
ISISの目的は、西洋諸国によって決められた国境と国家体制(サイクス・ピコ体制)を打倒し、かつてのイスラム王朝の領土を取り戻すことだと言われている。その主張にどれくらい正当性があるのか、僕には分からないが、いずれにせよISISが行っているのは領土を奪い合う武力闘争、すなわち戦争だということになる。
戦争の舞台となっているのは、我々日本人の 土地ではない。そこにどんな歴史があり、どれだけの悲しみや憎しみが降り積もっているのか、異邦人である僕に理解することはできない。
だが(ISISの行為を正当化するわけではないが)、あれほど残虐な行為を行ってまで取り返したい土地なのだ。そこには何か、よそ者にはうかがい知れぬ強い思いがあるのだろう。人を脅し、殺しても奪還したい土地と覇権。(我々にはまったく理解できないが)彼らの中では共感を得る正当性が存在するのだろう。
彼らはその主張を増幅させ、WEBメディアに載せて世界中に拡散する。だから中東地域の外からISISに賛同する人々が集まるのだろう。
だとしたらこれは情報戦だ。 ボスニア紛争の時にも同じ手法が用いられた。
広告代理店による印象操作。“民族浄化”というキャッチコピーでセルビアは敗れた。
「戦争広告代理店」という名著がある。1990年代前半に起きたボスニア紛争に関するドキュメンタリーで、テーマは「パブリックリレーション(PR)による情報操作」だ。
簡単に説明すると、紛争当事者であり劣勢だったボスニア側が、アメリカのPR会社を雇って敵国セルビアの悪口を世論に訴え、国際社会を味方につけたというものだ。
本の中で、ボスニアのPRを請け負ったアメリカのルーダー・フィン社が、セルビア側の虐殺行為を“民族浄化”と名付けて世界に流布させるエピソードが出てくる。
民族浄化という言葉自体は、ボスニア紛争の前から存在した。敵対する民族を排斥するため、虐殺や暴力で土地から追い出したり、自治体を乗っ取ったり、組織的な強姦を行ったりする行為のことだ。
だがルーダー・フィン社はその残虐な行為のネーミングを慎重に行った。当初は“ホロコースト”と呼ぼうとしたが、ユダヤ人コミュニティからの反発を受けて取りやめた。そしてやがて“ethnic puriffying”と“ethnic cleansing”という二つの英訳に辿り着く。最終的に多用するようになったのは“ethnic cleansing”の方だった。なぜなら、そっちの方がより残酷な響きを帯びていたからだ。
“民族浄化”というショッキングな響きが想起させる残虐なイメージは、瞬く間に世界中に浸透した。
たくさんの人が「いったいボスニアで、セルビア人はどんなおぞましいことを行っているのか?」と興味を持ち、セルビアは世界中から批難を浴びた。
もちろん、セルビア側が行ったとされる非人道的行為は決して許されない。
だがよく考えてみて欲しい。敵対する相手を殺し、土地から追い出し、自治体を占拠する。これこそが古来から“戦争”と呼ばれている行為ではないだろうか。近代の軍隊において非人道的な行為が禁止されたため、セルビアが行った行為は非難されているが、100年ほど前は世界中が同じことをしていたはずだ。
このケースでボスニア側が勝利した要因は、秀逸なキャッチコピーでセルビア側の行為を再定義し、印象を操作したことだった。
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日本から何が発信できるのか考えてみよう。
もしもこれが情報戦だとしたら。
ISISは世界中に向けて、暴力と恐怖と自分たちの正当性を訴え続けている。ネットの普及は“アラブの春”みたいな民主主義の勝利にも貢献したが、テロリストたちのプロパガンダにも役立っている。
だとしたら、日本からもネットを通じて様々な情報発信を行い、彼らの蛮行に対抗することができるのではないだろうか。
だけど、それはISISの行為を茶化す「クソコラグランプリ」みたいなものではないと思っている。相手を攻撃することでは何も得られない。攻撃は報復を生み、憎悪の連鎖を再生産するだけだからだ。
日本から発信するとすれば、ISISが殺したのが誰で、そしてそのことによって何が起きたのか、しっかりと説明することだと思う。
結局、人質が殺害されたからといって、2億ドルの支援が撤回されることは無かった。ISISは何の実現性もない単なる恫喝のために2人の命を奪ったのだ。
彼らの死に、何の意味があったのだろうか?
あの2人に死に値する罪があったのだとしたら、ぜひ教えてほしいものだ。
そもそも、日本人が中東地域の人々から積極的に怨まれるいわれは無いと思う(僕の理解不足なのかも知れないが)。湾岸戦争にお金を出して、間接的に戦火に関わったかも知れないが、むしろお金を出すと言えば、ODAによって中東諸国の発展に貢献してきたのだから。
そんな日本人を人質にし殺害した行為。
その行為が“みっともない”ということを世界中に伝えたい。
そんなPV(プロモーション・ビデオ)を作ればいいのではないかと思う。ISISのプロパガンダに対抗して。
そのPVの映像は、日本がこれまで中東へ支援した数々の橋や電気設備などの紹介から始まる。日本とはすなわち、太平戦争に負けて、軍隊を捨てて、羊のように世界中に頭を下げて金を配っている国だ。石油が涌くわけじゃない、国土が広いわけでもない。足は短く、鼻は低く、国民の半分が眼鏡を必要とする国なのだ。
戦争をしないことを信条にしていて、隣国から領土問題で虚仮にされてもなかなか反論することもできない人々だ。
ISISが殺したのは、そんな国の国民なのだということを、映像で伝えていく。
PVの後半には、地震と津波でボコボコになって、そこから這い上がろうとしている東北の人たちの姿もくっつけて欲しい。ヒロシマ・ナガサキの惨劇も盛り込みたい。“血に飢えた”彼らに、日本がどれほどの苦痛を乗り越えてきたのかを教えてやってくれ。
そんな日本人を殺害し、聖戦だといきまくことがどれほど“みっともない”ことか。
そのことを実感させたい。
世界中の誰が見ても
「うわあ・・・ISIS・・・かっこわるうぅ・・・」
と実感するPVを通じて、これ以上彼らのテロに加担する若者が現れないようにしたい。
「暴走族」を「珍走団」と呼ぶのと同じ力学だ。
美しくない理念に人は共感できないし、理念なき集団は存続することができない。
誰が見ても好ましくない行為を繰り返す彼らの目を覚まさせるには、正面から理を説いても無駄だと思う。
人々からの声高な批難を通じて、水面に映った自分たちの姿を気づかせる努力に、我々はもっと取り組んでもいいのかも知れない。